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隣国に行くため、見栄っ張りの侯爵は既製品ではあるが新しい服を数着買ってくれた。思った通り、制服も靴も必要最低限に身に着ける物はきちんと用意するという。
『ふん、こうして学園に通わせるだけでもありがたいと思え。いいか? 決して我が家に恥をかかせるような言動などするなよ? お前にかかった費用は全て後から請求するから覚えておけ。精々、成績上位に食い込み奨学金をもらうんだな』
贅沢などは以ての外だ、と娘と認めていないわたくしに対して、冷たい視線を投げかけて言い捨てた。あのあと、侯爵とは会う事もなくその日を迎えた。
隣国へ出立する朝、母が植えて大切に育てていたカスタードアップルやロンガン、ネクタリンなどが大きな実をつけている場所にやってきた。
ここは、日当たりの悪い屋敷のわたくしの部屋から見える完全に放置された裏庭だ。部屋にあるバルコニーから、その木を伝い庭に降り立つ事ができる。
地面には酸性の土壌でも育つスギナやオオバコ、ヒメジバやキイチゴなどが生い茂り、魔法で保護の出来ないわたくしの足を傷つけた。
それでもここに来れば、その木々たちを育て守るためにかけた魔法を通して、母を感じる事が出来るから、毎日のように人目を盗んではこうしてやってきていた。
年中美味しく生るその果物は、少なすぎる食事を補ってくれて空腹をしのぎ、栄養失調で倒れる事も防いでくれた。
中央に、一際大きく育ったユーカリの木の根元に移動する。剥き出しの足には赤い筋がいくつかできてヒリヒリ痛いけれど、どうしても来たかった。
悲しい気持ちの時、こうしてここにやって来ると、なぜかユーカリの葉が優しく揺れ、幹の温かい温度がわたくしを包んでくれた。まるで母がそうしてくれているように感じて、ぎゅっと木の幹に抱き着き耳を当てると、幹の中の力強いその生命力が、頑張れ、頑張れと励ましてくれているようだと、立ち上がる勇気をくれた。
「お母様、行ってまいります……ユーカリさん、皆、今まで支えてくれてありがとう」
わたくしの声に応えるように、ユーカリの葉や周囲の木々、そして雑草が優しく揺れた気がした。ここがこんな風に生きているのだ。きっと、母も生きているはず。
「お母様、自由の身になったら探しに行きます……。どうか、お元気で。長期休暇にはここに戻りますね」
学園に行けば、きっと何かが変わる。
成人までの間は、侯爵がわたくしの全権を持っているため言う事を聞かねばならない。逃げようとした事もあったけれど、あっという間に見つかって連れ戻され、激怒した侯爵にかなり怒鳴られた。
忌み子で、母の不貞の証であると思い込んでいる侯爵は、わたくしに触れるのも嫌らしく、暴力を振るわれた事はあまりない。その後3日間食事抜きだと言われ、そのまま1か月使用人たちに完全に忘れさられたこともあった。
その時に命を繋いでくれたこの場所に深く一礼する。
隣国は、魔法を扱う事が苦手な獣人たちがいて、力で相手をねじ伏せるらしい。頭の足らない野蛮な獣人だとこの国の人々は彼らを蔑む。大きな体に、粗野な言葉、そして、その獣性に応じた変身が出来るという。
怖いな、とも思う。
けれども、ここにいる人たちだって似たようなものだ。
時間が来たため、そっと裏庭から自室に戻り、さっと足に滲んだ血を拭き取る。ユーカリからいただいた油の成分でそこを塗ると、不思議とすぐに切り傷くらいは治った。少しは赤い筋が残るためハイソックスでそれを隠して、隣国に行くための馬車に向かう。
「あら? お姉さま、出発は明日じゃ? いやだわ、一日前倒しにされるだなんて……それほど隣国に行きたいのは理解しますけれども、皆の迷惑を少しはお考えになった方が……。そうそう、お姉さまはクアドリさまにとても大切にされていて羨ましいわ? 昨日だって、クアドリさまはお姉さまへの贈り物を悩んでらして。だからこうして、今日クアドリさまと一緒に、明日出立されるお姉さまへの贈り物を買いに街に出かける所だったのよ?」
にやにやとこちらを見て駆け寄って来るラドロウ。わたくしの予定は全て網羅している妹のそんな言葉を聞き、彼女の近くに並んで立っている婚約者に頭をさげた。
いつもなら、彼女の言う通りに言葉を濁して押し黙る。でも、今からは彼女や侯爵の手の届かない場所に行くのだ。
わたくしは、これから自由になる。初めて妹の言葉に反論した。
「いいえ、昨日、あなたが悲しんでくれた通り、予定通り今日よ。時間も変わっていないわ。おかしいわね? 何かの行き違いかしら?」
ラドロウのにこやかな顔が、一瞬驚愕のそれに変わる。その後、すぐに怒りの様相になり、わなわなと震え出した。
どういう事かわからなくて戸惑っている様子のクアドリには、わたくしの出発を明日だと伝えていたのだろう。こうして彼とデートに行くのだと見せつけ、わたくしがどれほど嘘つきでわがままなのを彼にこうやって伝えたかったに違いない。
よりによって、彼の前で恥をかかされたと顔を真っ赤にする妹に微笑む。
今のわたくしは、日に焼けないように大きなつばの帽子をかぶっている。白色が全く見えないからか、クアドリがわたくしを正面から見て驚いたあと笑顔を見せてくれた。
ドキドキして、どこかおかしなところはないか、彼に少しでも可愛く見て貰えているかが途端に気になってソワソワする。
「アイリス、手紙を送るよ。たまには、君からも欲しいな」
慌てたようにそう言う彼の言葉で、嫌われていると散々思い知らされているのに心が弾んでしまう。
「はい、直接クアドリさまの家にお届けしますね」
妹は、使用人からクアドリ宛の手紙を今まで握りつぶしていた事を聞いていたのだろう。直接彼とやり取りを始めれば妨害できないため悔しそうに彼女の顔が歪んだ。
「ああ、待っているよ。休暇に会える日を楽しみにしている」
「はい、ありがとうございます。わたくしも……」
初めて、彼と視線をしっかり合わせて微笑み合う。
(大丈夫。こんなにも誠実に向き合おうとしてくれている彼だもの。妹はともかく、彼は義理の妹としてしか接していないに決まっているわ……)
ラドロウの隣にクアドリがいて、妹はアクアマリンに似た色のアクセサリーを身に着けていた。妹がそっと彼の腕に指をかけてこちらに意味深な視線を投げかけて来る。
(大丈夫。だって、彼の左手の薬指には真珠の色あるのだから……)
体の前で重ねた手で、そっと彼から贈られた指輪を撫で背をのばした。
「行ってきます。ふたりともお元気で」
にっこりと微笑むと、体裁を気にした侯爵が用意した一番きれいで大きな馬車に乗り込んだのであった。
『ふん、こうして学園に通わせるだけでもありがたいと思え。いいか? 決して我が家に恥をかかせるような言動などするなよ? お前にかかった費用は全て後から請求するから覚えておけ。精々、成績上位に食い込み奨学金をもらうんだな』
贅沢などは以ての外だ、と娘と認めていないわたくしに対して、冷たい視線を投げかけて言い捨てた。あのあと、侯爵とは会う事もなくその日を迎えた。
隣国へ出立する朝、母が植えて大切に育てていたカスタードアップルやロンガン、ネクタリンなどが大きな実をつけている場所にやってきた。
ここは、日当たりの悪い屋敷のわたくしの部屋から見える完全に放置された裏庭だ。部屋にあるバルコニーから、その木を伝い庭に降り立つ事ができる。
地面には酸性の土壌でも育つスギナやオオバコ、ヒメジバやキイチゴなどが生い茂り、魔法で保護の出来ないわたくしの足を傷つけた。
それでもここに来れば、その木々たちを育て守るためにかけた魔法を通して、母を感じる事が出来るから、毎日のように人目を盗んではこうしてやってきていた。
年中美味しく生るその果物は、少なすぎる食事を補ってくれて空腹をしのぎ、栄養失調で倒れる事も防いでくれた。
中央に、一際大きく育ったユーカリの木の根元に移動する。剥き出しの足には赤い筋がいくつかできてヒリヒリ痛いけれど、どうしても来たかった。
悲しい気持ちの時、こうしてここにやって来ると、なぜかユーカリの葉が優しく揺れ、幹の温かい温度がわたくしを包んでくれた。まるで母がそうしてくれているように感じて、ぎゅっと木の幹に抱き着き耳を当てると、幹の中の力強いその生命力が、頑張れ、頑張れと励ましてくれているようだと、立ち上がる勇気をくれた。
「お母様、行ってまいります……ユーカリさん、皆、今まで支えてくれてありがとう」
わたくしの声に応えるように、ユーカリの葉や周囲の木々、そして雑草が優しく揺れた気がした。ここがこんな風に生きているのだ。きっと、母も生きているはず。
「お母様、自由の身になったら探しに行きます……。どうか、お元気で。長期休暇にはここに戻りますね」
学園に行けば、きっと何かが変わる。
成人までの間は、侯爵がわたくしの全権を持っているため言う事を聞かねばならない。逃げようとした事もあったけれど、あっという間に見つかって連れ戻され、激怒した侯爵にかなり怒鳴られた。
忌み子で、母の不貞の証であると思い込んでいる侯爵は、わたくしに触れるのも嫌らしく、暴力を振るわれた事はあまりない。その後3日間食事抜きだと言われ、そのまま1か月使用人たちに完全に忘れさられたこともあった。
その時に命を繋いでくれたこの場所に深く一礼する。
隣国は、魔法を扱う事が苦手な獣人たちがいて、力で相手をねじ伏せるらしい。頭の足らない野蛮な獣人だとこの国の人々は彼らを蔑む。大きな体に、粗野な言葉、そして、その獣性に応じた変身が出来るという。
怖いな、とも思う。
けれども、ここにいる人たちだって似たようなものだ。
時間が来たため、そっと裏庭から自室に戻り、さっと足に滲んだ血を拭き取る。ユーカリからいただいた油の成分でそこを塗ると、不思議とすぐに切り傷くらいは治った。少しは赤い筋が残るためハイソックスでそれを隠して、隣国に行くための馬車に向かう。
「あら? お姉さま、出発は明日じゃ? いやだわ、一日前倒しにされるだなんて……それほど隣国に行きたいのは理解しますけれども、皆の迷惑を少しはお考えになった方が……。そうそう、お姉さまはクアドリさまにとても大切にされていて羨ましいわ? 昨日だって、クアドリさまはお姉さまへの贈り物を悩んでらして。だからこうして、今日クアドリさまと一緒に、明日出立されるお姉さまへの贈り物を買いに街に出かける所だったのよ?」
にやにやとこちらを見て駆け寄って来るラドロウ。わたくしの予定は全て網羅している妹のそんな言葉を聞き、彼女の近くに並んで立っている婚約者に頭をさげた。
いつもなら、彼女の言う通りに言葉を濁して押し黙る。でも、今からは彼女や侯爵の手の届かない場所に行くのだ。
わたくしは、これから自由になる。初めて妹の言葉に反論した。
「いいえ、昨日、あなたが悲しんでくれた通り、予定通り今日よ。時間も変わっていないわ。おかしいわね? 何かの行き違いかしら?」
ラドロウのにこやかな顔が、一瞬驚愕のそれに変わる。その後、すぐに怒りの様相になり、わなわなと震え出した。
どういう事かわからなくて戸惑っている様子のクアドリには、わたくしの出発を明日だと伝えていたのだろう。こうして彼とデートに行くのだと見せつけ、わたくしがどれほど嘘つきでわがままなのを彼にこうやって伝えたかったに違いない。
よりによって、彼の前で恥をかかされたと顔を真っ赤にする妹に微笑む。
今のわたくしは、日に焼けないように大きなつばの帽子をかぶっている。白色が全く見えないからか、クアドリがわたくしを正面から見て驚いたあと笑顔を見せてくれた。
ドキドキして、どこかおかしなところはないか、彼に少しでも可愛く見て貰えているかが途端に気になってソワソワする。
「アイリス、手紙を送るよ。たまには、君からも欲しいな」
慌てたようにそう言う彼の言葉で、嫌われていると散々思い知らされているのに心が弾んでしまう。
「はい、直接クアドリさまの家にお届けしますね」
妹は、使用人からクアドリ宛の手紙を今まで握りつぶしていた事を聞いていたのだろう。直接彼とやり取りを始めれば妨害できないため悔しそうに彼女の顔が歪んだ。
「ああ、待っているよ。休暇に会える日を楽しみにしている」
「はい、ありがとうございます。わたくしも……」
初めて、彼と視線をしっかり合わせて微笑み合う。
(大丈夫。こんなにも誠実に向き合おうとしてくれている彼だもの。妹はともかく、彼は義理の妹としてしか接していないに決まっているわ……)
ラドロウの隣にクアドリがいて、妹はアクアマリンに似た色のアクセサリーを身に着けていた。妹がそっと彼の腕に指をかけてこちらに意味深な視線を投げかけて来る。
(大丈夫。だって、彼の左手の薬指には真珠の色あるのだから……)
体の前で重ねた手で、そっと彼から贈られた指輪を撫で背をのばした。
「行ってきます。ふたりともお元気で」
にっこりと微笑むと、体裁を気にした侯爵が用意した一番きれいで大きな馬車に乗り込んだのであった。
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