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伯爵夫人どころか、愛され求められて(実は愛されていなかったが)結婚した夫にも、まったく相手にされていない貧乏男爵令嬢をかくまってくれるような他家の者がいるはずなどない。
そんなパネルは、目の前の不動産屋を見て、住む場所を見つけるためには、ここが一番良いと思いついた。だが、目の前にある築何十年にもなっているだろうおんぼろ店舗は、普段であれば絶対に入らない。たとえ平民であっても、平均的な普通の女性ひとりが物件を探すには到底不釣り合いであった。
店舗の外観からは、まともな物件がなさそうで、こういう場所を利用するのは、訳ありの男性御用達といった雰囲気だ。
だが、胸の奥が深く傷ついたパネルは、自覚はしていないが完全に精神的に参りすぎていた。
この店ではなく、もう少し大きく清潔感あふれる不動産屋を探す事すら思いつかない。判断能力が0どころかマイナスな状態の彼女は、雨が降ってきたのもあって、触るのも憚られるくらいめっきの剥がれたドアノブに手をかけた。
ギギギ、ギーィ
古いドアの蝶番も、かなり年季が入っているようだ。歪みもあるのか、黒板に爪を立ててひっかいたような耳障りな音がした。
貴族が来店するなどなさそうな店舗の中は、思った以上に整理整頓されていた。というよりも、物がなかった。質素すぎる事務所には、アンティークとはとても言えないボロ机とチェア、そしてソファがあった。そのソファは、穴が数か所開いており、子供でも買える値段で売られているようなテープが張られているだけの簡単すぎる修繕しかされていない。
これほどひどい有様の部屋は見たことがない。中の様子を見て、パネルは、ようやくこの店に安易に入った事を後悔した。
「へい、らっしゃーい。おや、こんな店には来なさそうなご令嬢ですね。何か御用で?」
「あ、あの……」
貧乏でも男爵家の令嬢だったパネルは、平民でも富豪の商人くらいしか会ったことがない。店主の来ている服も言葉遣いも荒々しすぎる。ぶっきらぼうに適当に挨拶をされるなどという体験が初めてで戸惑い、身の危険も感じた。
事務所の中には、彼女に声をかけた壮年期の男性以外のスタッフの姿がない。パネルは、ポケットに入っている、結婚のときに実家から持たされた救援が必要な時に発動させると大きな音が出るアイテムに触れた。
男はゆっくり立ち上がり、彼女に近づく。明らかに警戒を始めたパネルを、なるべく怖がらせないように笑顔を絶やさないようにしているのがわかった。
店舗に入った事を後悔し続けている彼女は、ここでいきなり踵を返して店を出たら彼に対して大変失礼かと思い、立ち止まったまま彼の行動を見続けた。いざとなったら、両親が彼女に持たせたアイテムを使おうと、それをぎゅっと強く握った。
アイテムを使ったところで、大きな音が出るだけで、彼が悪人であれば効果は全くない。だが、みんなに守られて危険と無縁だった彼女は、このアイテムがあれば身の安全が保障されると思い込んでいた。
「お嬢さん、物件をお探しで?」
「あ、はい。あの、今日から住める家はありませんか?」
基本的に人を疑う必要のない人生を送ってきた彼女は、彼の問いに素直に答えた。お嬢さんではないと言いかけたが、ついさきほどまで人妻だったが、今は離婚して独身だから「お嬢さん」で間違いない。
人の好さそうな店主の表情と声音に、彼女はなんとなくほっとして、彼に促されるまま、穴だらけのソファに腰を落とした。
出されたお茶は、見たこともない小さなカップに入れられている。ほとんど使われていなさそうなカップに、熱湯を安い茶葉に注いだだけのそれは、お世辞にもおいしいとは思えなかった。
熱すぎるお茶を一口飲み一息ついた彼女は、伯爵家でさんざん馬鹿にされ、夫に必要とされていない無価値の自分にお茶を淹れてくれた彼の気遣いが嬉しく思えた。彼にしてみれば、店に来た客に、サービスの一環として適当にお茶を淹れただけなのだが。
「実は、先ほど家を追い出されてしまいまして。行く当てがないんです」
「なんと、それは大変でしたね。美しいお嬢さんが、こんなさびれた店に来てくれたんだ。私が責任を持って、とっておきの物件をご紹介しますよ」
「まぁ、ご親切にありがとうございます」
「親切丁寧に、が、わが社のモットーですからね。さきほどから雨が降ってきましたし、もうすぐ夜だ。本来なら、お客さんが気に入ってくださるまで現地を案内するのですがね、今日中にということで、時間もありませんし……。そこで、私が、お嬢さんにおすすめの物件をいくつかご紹介しようと思います。それでよろしいですかね?」
「はい。物件に関しては、わたくしは何も知りません。ですので、プロのあなたにお任せしたいです」
店主は、売れていない悪条件の物件や賃貸の部屋を、見た目金持ちそうな彼女に相場の倍から3倍で売るつもりだった。だが、あまりにも素直すぎて、自分を信頼する彼女の姿に、普段は全く感じない罪悪感が心に芽生える。
「は、ははは。ええ、この道30年の私にお任せください。お嬢さんにぴったりの物件をご紹介させていただきましょう」
そう胸を張って言ったものの、自分が扱っている物件や賃貸は、日雇い労働の屈強で粗野な男たち専用だ。たおやかで美しいご令嬢が住む物件などひとつもない。考えあぐねた彼は、分厚い資料をめくる。資料が2冊目になったとき、ふと、とあるページの物件が目についたのだった。
そんなパネルは、目の前の不動産屋を見て、住む場所を見つけるためには、ここが一番良いと思いついた。だが、目の前にある築何十年にもなっているだろうおんぼろ店舗は、普段であれば絶対に入らない。たとえ平民であっても、平均的な普通の女性ひとりが物件を探すには到底不釣り合いであった。
店舗の外観からは、まともな物件がなさそうで、こういう場所を利用するのは、訳ありの男性御用達といった雰囲気だ。
だが、胸の奥が深く傷ついたパネルは、自覚はしていないが完全に精神的に参りすぎていた。
この店ではなく、もう少し大きく清潔感あふれる不動産屋を探す事すら思いつかない。判断能力が0どころかマイナスな状態の彼女は、雨が降ってきたのもあって、触るのも憚られるくらいめっきの剥がれたドアノブに手をかけた。
ギギギ、ギーィ
古いドアの蝶番も、かなり年季が入っているようだ。歪みもあるのか、黒板に爪を立ててひっかいたような耳障りな音がした。
貴族が来店するなどなさそうな店舗の中は、思った以上に整理整頓されていた。というよりも、物がなかった。質素すぎる事務所には、アンティークとはとても言えないボロ机とチェア、そしてソファがあった。そのソファは、穴が数か所開いており、子供でも買える値段で売られているようなテープが張られているだけの簡単すぎる修繕しかされていない。
これほどひどい有様の部屋は見たことがない。中の様子を見て、パネルは、ようやくこの店に安易に入った事を後悔した。
「へい、らっしゃーい。おや、こんな店には来なさそうなご令嬢ですね。何か御用で?」
「あ、あの……」
貧乏でも男爵家の令嬢だったパネルは、平民でも富豪の商人くらいしか会ったことがない。店主の来ている服も言葉遣いも荒々しすぎる。ぶっきらぼうに適当に挨拶をされるなどという体験が初めてで戸惑い、身の危険も感じた。
事務所の中には、彼女に声をかけた壮年期の男性以外のスタッフの姿がない。パネルは、ポケットに入っている、結婚のときに実家から持たされた救援が必要な時に発動させると大きな音が出るアイテムに触れた。
男はゆっくり立ち上がり、彼女に近づく。明らかに警戒を始めたパネルを、なるべく怖がらせないように笑顔を絶やさないようにしているのがわかった。
店舗に入った事を後悔し続けている彼女は、ここでいきなり踵を返して店を出たら彼に対して大変失礼かと思い、立ち止まったまま彼の行動を見続けた。いざとなったら、両親が彼女に持たせたアイテムを使おうと、それをぎゅっと強く握った。
アイテムを使ったところで、大きな音が出るだけで、彼が悪人であれば効果は全くない。だが、みんなに守られて危険と無縁だった彼女は、このアイテムがあれば身の安全が保障されると思い込んでいた。
「お嬢さん、物件をお探しで?」
「あ、はい。あの、今日から住める家はありませんか?」
基本的に人を疑う必要のない人生を送ってきた彼女は、彼の問いに素直に答えた。お嬢さんではないと言いかけたが、ついさきほどまで人妻だったが、今は離婚して独身だから「お嬢さん」で間違いない。
人の好さそうな店主の表情と声音に、彼女はなんとなくほっとして、彼に促されるまま、穴だらけのソファに腰を落とした。
出されたお茶は、見たこともない小さなカップに入れられている。ほとんど使われていなさそうなカップに、熱湯を安い茶葉に注いだだけのそれは、お世辞にもおいしいとは思えなかった。
熱すぎるお茶を一口飲み一息ついた彼女は、伯爵家でさんざん馬鹿にされ、夫に必要とされていない無価値の自分にお茶を淹れてくれた彼の気遣いが嬉しく思えた。彼にしてみれば、店に来た客に、サービスの一環として適当にお茶を淹れただけなのだが。
「実は、先ほど家を追い出されてしまいまして。行く当てがないんです」
「なんと、それは大変でしたね。美しいお嬢さんが、こんなさびれた店に来てくれたんだ。私が責任を持って、とっておきの物件をご紹介しますよ」
「まぁ、ご親切にありがとうございます」
「親切丁寧に、が、わが社のモットーですからね。さきほどから雨が降ってきましたし、もうすぐ夜だ。本来なら、お客さんが気に入ってくださるまで現地を案内するのですがね、今日中にということで、時間もありませんし……。そこで、私が、お嬢さんにおすすめの物件をいくつかご紹介しようと思います。それでよろしいですかね?」
「はい。物件に関しては、わたくしは何も知りません。ですので、プロのあなたにお任せしたいです」
店主は、売れていない悪条件の物件や賃貸の部屋を、見た目金持ちそうな彼女に相場の倍から3倍で売るつもりだった。だが、あまりにも素直すぎて、自分を信頼する彼女の姿に、普段は全く感じない罪悪感が心に芽生える。
「は、ははは。ええ、この道30年の私にお任せください。お嬢さんにぴったりの物件をご紹介させていただきましょう」
そう胸を張って言ったものの、自分が扱っている物件や賃貸は、日雇い労働の屈強で粗野な男たち専用だ。たおやかで美しいご令嬢が住む物件などひとつもない。考えあぐねた彼は、分厚い資料をめくる。資料が2冊目になったとき、ふと、とあるページの物件が目についたのだった。
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