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まだ夕方になるには数時間あるというのに、あいにくの曇り空だ。貴族の館が立ち並んでいる王都ではあるものの、周囲は薄暗く、太陽が隠れているために寒い。
パネルは、小さなアイテムボックスつきのカバン一つを持ち、伯爵夫妻に挨拶する間もなく家を追い出された。当然のように馬車などは準備されていないため、とぼとぼ大きな館の塀の横を歩いていく。
「仲が良いとはいえなかったけれど、3年一緒に過ごしたホースさまとパキンさまにお別れの挨拶くらいはしたかったわ」
カンソから、彼らに挨拶をする必要もないと言われたとはいえ、この家の主はホースさまだ。挨拶もなく家を出て行ったとなれば、怒りを買い、実家に影響があるのではと思い身震いした。
だが、大きな門は固く閉じられ、カンソとの離婚の誓約書にサインを済ませたパネルが、伯爵家の許可なく入ることなどできない。
「わたくしが出て行ったあとのことは、何も心配しなくていいと言われたけれど……」
最初からずっと騙していたカンソを信用していいのか、今となってはどうかわからない。ほとんど着の身着のまま追い出すのなら、せめて当分住めるように配慮していればまだしも、パネルは今日から住む場所すらないではないか。誠実のせの字もない彼の行動の結果が、今なのだ。
少し前までなら、彼の言うことを何の疑いもなく信じていただろう。
「はぁ、あれこれ考えたってどうにもならないわね。これからどうしようかしら」
自分の気持ちをうつしたかのような暗い空を見上げる。あてもなく足を動かしていたが、ふと頬にあたる風が冷たいと感じた。空気が湿り気を帯びてきたことに気づき、雨が降っては大変だと、のろのろ動く足の動きを速くした。
ポツリ
小さな、気のせいかと思われるほどの雨粒が右頬にぶつかる。指先でそれをぬぐうと、水滴にもならないそれが触れただけのはずなのに、彼女の頬はひどく濡れていた。
「……あら? おかしいわね」
涙を流している自覚などなかった。だが、ついさっきの元がつく夫とのやりとりに、涙があふれるほど大きく傷ついていたことに漸く思い当たる。
「うう……。お父さま、お母さま、お兄さま、お義姉さま……」
今、彼女の脳裏に浮かぶのは、慕っていた元夫たちではない。暖かな彼らの微笑みと笑い声、叱る言葉すら懐かしい。
パネルが嫁いでから、お金に不自由のない家で、夫に愛され幸せに暮らしていると信じているだろう。
今すぐに会いたくなったが、帰ったところで、今回のことをどのように説明すればいいのだろうか。両親や兄は、パネルを快く迎え入れてくれるだろう。だが、兄は結婚しており、小さな跡取りが生まれたばかり。そんな中、パネルが家に身を寄せるのは憚られた。
カンソのあの様子では、パネルの実家のことなど一ミリたりとも思い至らないだろう。伯爵家から、実家に今回のことが伝わるとは思えなかった。
そのうち、離婚のことは実家の耳に入る。その時の彼らの心情を考えると、他者から聞かされるよりは、自分で伝えたほうがいいと思った。頬を濡らす涙を拭くハンカチとともに、花びらのような羽を持つ小さな精霊を呼び出す。
この精霊は、彼女が学生時代に召喚してからずっと一緒にいる。魔力の少ない彼女は、カンソが召喚したような高位精霊とは契約できなかった。精霊の格があがるほど、その能力とパワーはけた違いに大きくなる。
パネルの精霊は、伝言を伝える程度の能力しかない。だが、争いごとの嫌いな彼女には、その精霊で十分だった。高位精霊と違い言葉を交わすこともできないが、穏やかで優しく、彼女が呼べはこうしてすぐに出てきてくれる。伯爵家で悲しい思いをした時には、寄り添って傍にいてくれた、頼もしい味方だ。
「ごきげんよう、わたくしの小さなお友達。あのね、お願いがあるの。おつかいを頼めるかしら?」
普段、涙を流すことなく微笑んで耐えている彼女が泣いている姿を見て、心配そうに眉を下げると、そっと彼女の頬にキスをした。そんな彼の気遣いが心に沁みて、新しい涙が瞳から溢れる。
「お父さま、お母さま、お兄さま、お義姉さま。詳しい事情はお話できませんが、この度、離婚して伯爵家を出ることになりました。大変、ご心配をおかけすることと思います。今後のことは、きちんとしておりますので、ご安心ください。落ち着きましたら、顔を出しに実家に寄りますので、心穏やかにお過ごしください。……パン、この言葉を、実家の家族に伝えてくれる?」
パネルは、精霊のパンにそう言付けたが、パンは彼女から離れるのが心配だと暫くそこを動かなかった。何分経ったのだろうか。彼女の涙が止まったのを見届けた後、手のひらほどの彼はくるんと体を回転させて消えた。
「さあ、これで本当に実家に帰れなくなったわ。暗くなる前に、住む場所を探さないと」
パンを見送り、パネルは近くの街に向かった。そろそろ暗くなる。本格的に雨も降りそうだと、周囲の店は、早く店じまいを始め、灯りを消していっていた。
そんな中、店内に客が誰一人としていない、こじんまりとした古びた不動産屋の看板と窓から漏れる灯りが、やけに明るく道を照らしていたのであった。
パネルは、小さなアイテムボックスつきのカバン一つを持ち、伯爵夫妻に挨拶する間もなく家を追い出された。当然のように馬車などは準備されていないため、とぼとぼ大きな館の塀の横を歩いていく。
「仲が良いとはいえなかったけれど、3年一緒に過ごしたホースさまとパキンさまにお別れの挨拶くらいはしたかったわ」
カンソから、彼らに挨拶をする必要もないと言われたとはいえ、この家の主はホースさまだ。挨拶もなく家を出て行ったとなれば、怒りを買い、実家に影響があるのではと思い身震いした。
だが、大きな門は固く閉じられ、カンソとの離婚の誓約書にサインを済ませたパネルが、伯爵家の許可なく入ることなどできない。
「わたくしが出て行ったあとのことは、何も心配しなくていいと言われたけれど……」
最初からずっと騙していたカンソを信用していいのか、今となってはどうかわからない。ほとんど着の身着のまま追い出すのなら、せめて当分住めるように配慮していればまだしも、パネルは今日から住む場所すらないではないか。誠実のせの字もない彼の行動の結果が、今なのだ。
少し前までなら、彼の言うことを何の疑いもなく信じていただろう。
「はぁ、あれこれ考えたってどうにもならないわね。これからどうしようかしら」
自分の気持ちをうつしたかのような暗い空を見上げる。あてもなく足を動かしていたが、ふと頬にあたる風が冷たいと感じた。空気が湿り気を帯びてきたことに気づき、雨が降っては大変だと、のろのろ動く足の動きを速くした。
ポツリ
小さな、気のせいかと思われるほどの雨粒が右頬にぶつかる。指先でそれをぬぐうと、水滴にもならないそれが触れただけのはずなのに、彼女の頬はひどく濡れていた。
「……あら? おかしいわね」
涙を流している自覚などなかった。だが、ついさっきの元がつく夫とのやりとりに、涙があふれるほど大きく傷ついていたことに漸く思い当たる。
「うう……。お父さま、お母さま、お兄さま、お義姉さま……」
今、彼女の脳裏に浮かぶのは、慕っていた元夫たちではない。暖かな彼らの微笑みと笑い声、叱る言葉すら懐かしい。
パネルが嫁いでから、お金に不自由のない家で、夫に愛され幸せに暮らしていると信じているだろう。
今すぐに会いたくなったが、帰ったところで、今回のことをどのように説明すればいいのだろうか。両親や兄は、パネルを快く迎え入れてくれるだろう。だが、兄は結婚しており、小さな跡取りが生まれたばかり。そんな中、パネルが家に身を寄せるのは憚られた。
カンソのあの様子では、パネルの実家のことなど一ミリたりとも思い至らないだろう。伯爵家から、実家に今回のことが伝わるとは思えなかった。
そのうち、離婚のことは実家の耳に入る。その時の彼らの心情を考えると、他者から聞かされるよりは、自分で伝えたほうがいいと思った。頬を濡らす涙を拭くハンカチとともに、花びらのような羽を持つ小さな精霊を呼び出す。
この精霊は、彼女が学生時代に召喚してからずっと一緒にいる。魔力の少ない彼女は、カンソが召喚したような高位精霊とは契約できなかった。精霊の格があがるほど、その能力とパワーはけた違いに大きくなる。
パネルの精霊は、伝言を伝える程度の能力しかない。だが、争いごとの嫌いな彼女には、その精霊で十分だった。高位精霊と違い言葉を交わすこともできないが、穏やかで優しく、彼女が呼べはこうしてすぐに出てきてくれる。伯爵家で悲しい思いをした時には、寄り添って傍にいてくれた、頼もしい味方だ。
「ごきげんよう、わたくしの小さなお友達。あのね、お願いがあるの。おつかいを頼めるかしら?」
普段、涙を流すことなく微笑んで耐えている彼女が泣いている姿を見て、心配そうに眉を下げると、そっと彼女の頬にキスをした。そんな彼の気遣いが心に沁みて、新しい涙が瞳から溢れる。
「お父さま、お母さま、お兄さま、お義姉さま。詳しい事情はお話できませんが、この度、離婚して伯爵家を出ることになりました。大変、ご心配をおかけすることと思います。今後のことは、きちんとしておりますので、ご安心ください。落ち着きましたら、顔を出しに実家に寄りますので、心穏やかにお過ごしください。……パン、この言葉を、実家の家族に伝えてくれる?」
パネルは、精霊のパンにそう言付けたが、パンは彼女から離れるのが心配だと暫くそこを動かなかった。何分経ったのだろうか。彼女の涙が止まったのを見届けた後、手のひらほどの彼はくるんと体を回転させて消えた。
「さあ、これで本当に実家に帰れなくなったわ。暗くなる前に、住む場所を探さないと」
パンを見送り、パネルは近くの街に向かった。そろそろ暗くなる。本格的に雨も降りそうだと、周囲の店は、早く店じまいを始め、灯りを消していっていた。
そんな中、店内に客が誰一人としていない、こじんまりとした古びた不動産屋の看板と窓から漏れる灯りが、やけに明るく道を照らしていたのであった。
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