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男は、ダインと名乗った。彼は、ディンギール公爵とは血縁関係であるという。
「じゃあ、ダインはディンギール公爵家の後継者なんですか?」
「……違う。あの男は、俺が生まれたことすら覚えていない。というよりも、死んでせいせいしたと思っている」
「そんな……でも、前妻であるあなたのお母様がお亡くなりになられる前までは、ご一緒に過ごされたのでしょう?」
「母は、あの男に閉じ込められていた。といっても古ぼけた別邸だが。名ばかりの妻として、いない存在のように扱われていたんだ。俺が身ごもったことは、あの男にとって酔っぱらった上での誤算であり汚点でしかなかったんだ……」
泥酔した公爵が、ダインの母を不同意で襲ったらしい。それまでは、今の妻である後妻一筋だった彼は、その事実を隠すために正妻を別邸に押し込めた。
公爵にとって、たった一度の過ちであるダインの存在は、彼にとって耐えがたい屈辱と、今の妻への裏切りの証だった。
前妻が、碌に日も差さず、カビの生えた別邸で体調を崩してベッドの上から出られなくなったとき、ダインはまだひと月にも満たなかった。公爵は家に寄り付かず、今の妻がいる娼館に入り浸りの状態であったことから、前妻の侍女でありダインの乳母は、出産に耐えられずに赤ん坊は死んだと、前妻が起き上がれなくなったと聞き喜んでいる公爵に伝えた。
それ以降、ダインは侍女の子として公爵家で過ごした。
美しかった前妻に似た彼が長じるにつれ、人の目を奪うほどの美貌が際立つ。侍女は、このままではダインが公爵の子であると知られると思い、彼をことさら小汚く見えるように育てた。
下働きでも嫌がるような仕事は、前妻が床に伏してからないがしろにされた侍女と、大きくなってからはダインがするようになった。そのような状態でも、侍女は前妻や彼のことを見捨てることなくふたりを守っていたのである。
ある日、前妻が亡くなり、後妻とともにディアンヌが公爵家にやってきた。ディアンヌは、偶然見かけたダインが、実はきれいな顔をしていると知り気に入った。
公爵は、ディアンヌをたぶらかしたダインを追い出そうとしたが、前妻の瞳によく似た彼の青を見た時、追い出すのではなく飼い殺しにして苦しめてやろうと考えた。
そうして、侍女は、ダインがどのような命令でも拒絶できないように人質として屋敷のどこかに捕らえられたという。
「だが、お前を誘拐してこいと命令されて潜り込んだお茶会のあと、使用人のひとりが、彼女が死んだことをほのめかしたんだ。彼女のために、虫唾が走るような家でおぞましい命令に従ってきたが、もう、俺には命令に従う義理はない。かといって、犯してきた罪がきえるわけでもなく……」
「それで、わざと失敗して死のうとしたのか……」
ウォーレンが、深い溜息とともに言った言葉に、ダインはうなづいた。首をさらしたかのようなその姿勢は、今すぐその白く細い首を落とせと言っているようだ。
アイーシャは、たまらずウォーレンの腕に手を当てて声をあげた。
「ウォーレン様、ダインは無理やりやらされていたんです。いろんなことをした実行犯かもしれませんけれど、悪いのはディンギール公爵ですよね? それに、ダインは人を殺めたり女性を襲ったりはしていないのでしょう? だったら、なんとかできませんか?」
「アイーシャ……」
「……ははっ」
ダインは、馬鹿にしたように小さく笑った。
どこまでも甘い、世間知らずの女だろう、と。告白した内容に偽りはないが、騎士団長であるウォーレンには犯罪者に対する生命与奪の権利がある。
とうに母を亡くし、侍女もいなくなった今、ダインにとって切り捨てられたとしても文句はないどころか望むところだ。
「はっ、なんと慈悲深い、お優しいお嬢さまだ。お前に、お前に、何の権利があって、俺の邪魔をする……!」
ダインは、キッとアイーシャを睨みつける。早くこの地獄のような世界から去りたいのに、自分とは違う、平和しかしらない傷ついたことがない令嬢に苛ついた。
「何の権利って、そりゃあ、襲われそうになった被害者としての権利? あと、うちの領地で血なまぐさいことはごめんなの。ただ、ディンギール公爵と一緒に悪事を働いたわけでもないのに、同等の罪の重さとしてとらえるのは嫌なだけ。ディンギール公爵に相対するための情報も証拠も得られていないのに、あなたを今すぐに楽にしてあげるだなんて、そんな優しい気持ちも持っていないわ」
アイーシャには、ダインの育った環境も、彼の気持ちもわからない。ただ、関わってしまった人が悲しみに飲み込まれたまま去っていくのは忍びない。ここまで話したダインは、おそらく自分を知って欲しいのだろう。そして、闇よりも暗い場所から助けて欲しいと願っているのではないかと思えた。
ディアンヌとは毛色が違うが、頭の中には蝶が舞っていると思っていたアイーシャの言葉に、ダインは目を見開いた。
「とにかく、決定権は私の婚約者であるウォーレン様にあるの。あと、お父様にも、かな? つまり、あなたの命はあなたのものじゃないの。わかったら、さっさとこれを食べて」
「あ、ああ……」
少し力を込めて叩けば折れそうなほど華奢な手にあったのは、少し前まではやわらかくて温かだったパンと、冷たくなったジャガイモのスープだった。
すっかりアイーシャのペースにのまれたダインは、ぐいっと突き出されるパンやスープを一口、また一口と胃に落とした。
「美味しい? うちのコックが作った料理は、冷めても美味しんだよ。残したら許さないんだから」
「……」
ダインの口元が歪んで震えていた。息をつめて、つっかえつっかえスープを飲み干す。ごくんと喉を通る瞬間、彼の声なき音が聞こえた気がした。
アイーシャの凛とした姿が垣間見えたかと思えば、また世間知らずで優しい無邪気な令嬢のように振舞う。そんな彼女の姿は、ウォーレンの心に大きな波紋をいくつも生んだのであった。
「じゃあ、ダインはディンギール公爵家の後継者なんですか?」
「……違う。あの男は、俺が生まれたことすら覚えていない。というよりも、死んでせいせいしたと思っている」
「そんな……でも、前妻であるあなたのお母様がお亡くなりになられる前までは、ご一緒に過ごされたのでしょう?」
「母は、あの男に閉じ込められていた。といっても古ぼけた別邸だが。名ばかりの妻として、いない存在のように扱われていたんだ。俺が身ごもったことは、あの男にとって酔っぱらった上での誤算であり汚点でしかなかったんだ……」
泥酔した公爵が、ダインの母を不同意で襲ったらしい。それまでは、今の妻である後妻一筋だった彼は、その事実を隠すために正妻を別邸に押し込めた。
公爵にとって、たった一度の過ちであるダインの存在は、彼にとって耐えがたい屈辱と、今の妻への裏切りの証だった。
前妻が、碌に日も差さず、カビの生えた別邸で体調を崩してベッドの上から出られなくなったとき、ダインはまだひと月にも満たなかった。公爵は家に寄り付かず、今の妻がいる娼館に入り浸りの状態であったことから、前妻の侍女でありダインの乳母は、出産に耐えられずに赤ん坊は死んだと、前妻が起き上がれなくなったと聞き喜んでいる公爵に伝えた。
それ以降、ダインは侍女の子として公爵家で過ごした。
美しかった前妻に似た彼が長じるにつれ、人の目を奪うほどの美貌が際立つ。侍女は、このままではダインが公爵の子であると知られると思い、彼をことさら小汚く見えるように育てた。
下働きでも嫌がるような仕事は、前妻が床に伏してからないがしろにされた侍女と、大きくなってからはダインがするようになった。そのような状態でも、侍女は前妻や彼のことを見捨てることなくふたりを守っていたのである。
ある日、前妻が亡くなり、後妻とともにディアンヌが公爵家にやってきた。ディアンヌは、偶然見かけたダインが、実はきれいな顔をしていると知り気に入った。
公爵は、ディアンヌをたぶらかしたダインを追い出そうとしたが、前妻の瞳によく似た彼の青を見た時、追い出すのではなく飼い殺しにして苦しめてやろうと考えた。
そうして、侍女は、ダインがどのような命令でも拒絶できないように人質として屋敷のどこかに捕らえられたという。
「だが、お前を誘拐してこいと命令されて潜り込んだお茶会のあと、使用人のひとりが、彼女が死んだことをほのめかしたんだ。彼女のために、虫唾が走るような家でおぞましい命令に従ってきたが、もう、俺には命令に従う義理はない。かといって、犯してきた罪がきえるわけでもなく……」
「それで、わざと失敗して死のうとしたのか……」
ウォーレンが、深い溜息とともに言った言葉に、ダインはうなづいた。首をさらしたかのようなその姿勢は、今すぐその白く細い首を落とせと言っているようだ。
アイーシャは、たまらずウォーレンの腕に手を当てて声をあげた。
「ウォーレン様、ダインは無理やりやらされていたんです。いろんなことをした実行犯かもしれませんけれど、悪いのはディンギール公爵ですよね? それに、ダインは人を殺めたり女性を襲ったりはしていないのでしょう? だったら、なんとかできませんか?」
「アイーシャ……」
「……ははっ」
ダインは、馬鹿にしたように小さく笑った。
どこまでも甘い、世間知らずの女だろう、と。告白した内容に偽りはないが、騎士団長であるウォーレンには犯罪者に対する生命与奪の権利がある。
とうに母を亡くし、侍女もいなくなった今、ダインにとって切り捨てられたとしても文句はないどころか望むところだ。
「はっ、なんと慈悲深い、お優しいお嬢さまだ。お前に、お前に、何の権利があって、俺の邪魔をする……!」
ダインは、キッとアイーシャを睨みつける。早くこの地獄のような世界から去りたいのに、自分とは違う、平和しかしらない傷ついたことがない令嬢に苛ついた。
「何の権利って、そりゃあ、襲われそうになった被害者としての権利? あと、うちの領地で血なまぐさいことはごめんなの。ただ、ディンギール公爵と一緒に悪事を働いたわけでもないのに、同等の罪の重さとしてとらえるのは嫌なだけ。ディンギール公爵に相対するための情報も証拠も得られていないのに、あなたを今すぐに楽にしてあげるだなんて、そんな優しい気持ちも持っていないわ」
アイーシャには、ダインの育った環境も、彼の気持ちもわからない。ただ、関わってしまった人が悲しみに飲み込まれたまま去っていくのは忍びない。ここまで話したダインは、おそらく自分を知って欲しいのだろう。そして、闇よりも暗い場所から助けて欲しいと願っているのではないかと思えた。
ディアンヌとは毛色が違うが、頭の中には蝶が舞っていると思っていたアイーシャの言葉に、ダインは目を見開いた。
「とにかく、決定権は私の婚約者であるウォーレン様にあるの。あと、お父様にも、かな? つまり、あなたの命はあなたのものじゃないの。わかったら、さっさとこれを食べて」
「あ、ああ……」
少し力を込めて叩けば折れそうなほど華奢な手にあったのは、少し前まではやわらかくて温かだったパンと、冷たくなったジャガイモのスープだった。
すっかりアイーシャのペースにのまれたダインは、ぐいっと突き出されるパンやスープを一口、また一口と胃に落とした。
「美味しい? うちのコックが作った料理は、冷めても美味しんだよ。残したら許さないんだから」
「……」
ダインの口元が歪んで震えていた。息をつめて、つっかえつっかえスープを飲み干す。ごくんと喉を通る瞬間、彼の声なき音が聞こえた気がした。
アイーシャの凛とした姿が垣間見えたかと思えば、また世間知らずで優しい無邪気な令嬢のように振舞う。そんな彼女の姿は、ウォーレンの心に大きな波紋をいくつも生んだのであった。
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