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ワスレナグサ③

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「危ないっ!」

 イヴォンヌの後ろには花壇の縁取りのレンガがあり、ぐらりと後ろ向きに倒れそうになった。

 サヴァイヴは、ぎょっとして彼女の手を引き、ぐっと体を寄せて抱きしめるとほっと安堵のため息を吐いた。

「……!」

 焦りがなくなり頭が冷静になると、腕の中に小さな愛しい人がいる事に気付いた。鼻腔をくすぐる彼女のほのかな花の香りは、かつて自分が好きだと言っていたシトラス系のものだ。鍛えた体にすっぽり収まる彼女の肌はとても柔らかく、抱きしめた腕にぎゅっと力を込めてしまう。

「離してください……」

 すぐに、彼女からそう言われるが、離せばまた距離を取られる。物理的に距離が開くだけならともかく、心までもっと遠くに行きそうで離したくなかった。

「……離したくない」
「勝手だわ。貴方も、誰も彼もが皆! わたくしの事を本当に思ってくれる人なんていないのよ」
「そんな事はない」
「だって、だって、じゃあ、なんで、わたくしはこんなにも辛いの? あ、貴方に拒絶された時も泣き暮らして、彼だって離れていった今だって、ひっく……、うう……」
「……ヴィー、愛している。ずっと、ずっとだ。王子と婚約したと聞いた時、二人の仲を聞く度、仲よさそうな姿を見た時、ヴィーの気持ちをやっと知ったんだと思う。このまま、ヴィーの望む通りにしてあげるのが正解かもしれない。でも、俺はヴィーを忘れられないし愛している。それに……、王子に頼まれたんだ」
「ひぃっく、ひっく……、彼に……?」
「ヴィーを諦めないでくれって」
「……ひっく、普通、幸せにしてやってくれとかじゃないのよ! あ、貴方たちはバカなの⁈ 何よ! なんなのよ!」

 思いもしなかった王子からの依頼の内容を聞いた途端、イヴォンヌは感情が爆発して叫んでしまう。
  サヴァイヴの硬い胸板を、小さな彼女の拳がドンドンと叩きだした。

 サヴァイヴは、目を閉じて彼女の言葉と涙と激情、そして胸を打つ拳を受け止め続けた。

「馬鹿だよな……。あのな、ヴィー……、悔しいが王子の愛情の示し方には頭が下がる。俺なら、他の男に託すなんて出来ない」

「し、知らないっ! 知るもんですか!」

「ヴィー、愛している」

「あなたも、馬鹿の一つ覚えみたいに……!」

「愛している……」

「なんなのよぉ……、ばかぁ」

「愛している」

 イヴォンヌの力が抜けてきた。恐らく、ずっと不眠続きで心身が弱っていたのだろう。化粧で誤魔化しているが、目の下には隈があり、頬の肉が落ちている。
  しっかりと抱き留めて横抱きにすると、軽すぎるその体に、胸が痛くなった。

  涙で頬を汚した彼女の閉じた瞼にそっと唇をつけた。

「ソフィア、だったな。いるんだろう? イヴォンヌを部屋に連れて行くから案内してくれ」

 かさりと音がして、少し離れた所で二人を見守っていたソフィアが出てきて頭を下げた。その後ろにはやれやれと呆れた様子のクロヴィスまでいる。

 学園の温室から女子寮までは人通りがそれほどないとはいえ、全くひと目がないというわけではない。

 サヴァイヴが、イヴォンヌを大切に抱き、まるでどこかの姫君のように守る騎士のように歩く姿は、あっという間に噂され、学園中に広まった。



※※※※



 泣きはらした瞼を温かいタオルでソフィアが覆う。先ほどまで、大切なお嬢様を幼い頃傷つけた男が泣かせたというのに、事もあろうか彼はずっとイヴォンヌの側にいた。
 夕方になりクロヴィスに促されて退室する際に、イヴォンヌの額に唇まで落としたサヴァイヴの恐ろしい顔と大きな体を思い出して、取り換えるために持ったタオルをぎゅうぎゅうと絞る。

──あの男、お嬢様をこんなに泣かせて……。次に会ったらどうしてくれよう

と、怒りのままに絞られたタオルからはほとんど水気が無くなっていた。

 はたと我に返ったソフィアがもう一度タオルを湯につけた時、イヴォンヌの瞼がゆっくり開いた。

「ソフィア……、わたくしはいったい……」
「温室で倒れられたのですよ? そのまま今まで眠っておられたんです」

 ソフィアはサヴァイヴが運んできた事や、涙を眠りながら流し続けた事を言わなかった。

「そう……。今は真夜中……? ソフィア、今まで付き添ってくれたの?」
「よく眠っておいででした。お腹が空いておられませんか? 軽食を用意しましょうか?」

 ソフィアは、まずは冷たい水をイヴォンヌに飲ませた。最近食欲もなくあまり眠れていなかった彼女を気遣っているのがよくわかる。
 ふとソフィアの後ろにあるテーブルを見るとサンドイッチが置かれてあった。

「……、ソフィアありがとう。いただくわ。もう遅いからあなたも休んで?」
「お嬢様、大丈夫ですから先ずは食べてください」
「でも……」

 恐らくは、食べると言いつつ食べないかもしれないと心配しているのだろう。イヴォンヌはそれ以上ソフィアに下がるように言うのを諦めて渡されたサンドイッチを少しずつ口に含んでいった。

「おいしい……」

 時間が経ち、パサついているにも拘らずそれはとても美味しく感じた。

 昼間に八つ当たり気味にサヴァイヴに対して感情を爆発させ、ゆっくり休んだからだろうか。それとも、いつもこうして側にいてくれるソフィアの存在があるからだろうか。

 ふと、最近毎日のように現れる深い藍色の毛皮を持つ野生の狼のような人物を思い浮かべて頭を振る。

  久しぶりに、準備されていたサンドイッチを全て食べたのであった。





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