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64 愛しい雇い主

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(そもそも、あの国が、他の国のように正式な謁見を申し込むこと自体、おかしな話だったんだ。フェルミ、無事でいてくれ。泣いてないか?)

 侯爵はとっくにこの国を出ており、関係者も見つけることができない。彼女の側を離れたことを、何度も悔やんだ。

 彼女が行方不明なことを、大っぴらに公表するわけにはいかなかった。そんなことをすれば、真っ当な人に保護されているのなら連絡があるだろうが、隙を見つけて彼女をどうにかしようとする人々に攫われるだろう。

 幸い、フェルミらしき女性が、港町から出たという情報もない。カインは、着替えすらせず彼女の痕跡を探した。

 ふと、旅客船が出航の時を告げる汽笛が鳴る音が気になった。そちらに視線を向けると、懐かしい船が佇んでいる。

(シルバーバレットか。そう言えば、彼女と運命の出会いを果たしたのは、この船だったな。あれから、ずいぶん経つのか)

 カインは、フレイム国に戻ってから一睡もしていない。疲労が蓄積していたようだ。足を止め、ぼうっと旅客船を見上げた。

 この船に乗るには、きちんとした身分証明が必要だ。この短時間で、フェルミがこの船に乗るためのチケットを準備したとは考えにくい。
 しかも、シルバーバレットは、どこをどう叩いても埃が出ない会社だ。密航などあり得ない。

(あの時の俺のように、予めチケットを手に入れている客に合流するにも、それぞれの身分を確認される。まさかとは思うが……)

 その時、船と陸をつなぐタラップ付近に、見知った顔があった。虫の知らせというものなのか、なぜか胸騒ぎがする。ダメ元で、彼にフェルミを見なかったか訊ねようと声をかけた。

「おおい、おーい! 聞こえるか?」
「あ、あの時の! お久しぶりです」

 船員も、カインのことを覚えていたようで、満面の笑顔で手を振ってくれた。

「あの時の女性を覚えているか? 最近、彼女を見なかったか?」
「ええ、勿論です。カインさんになら、話していいよな。実は、この船におられるんです」
「……!」

 今、彼はなんと言ったのか。自分の願望が見せた幻聴か。とても信じられず息が止まった。

「そろそろ出航なんです。危ないので、海から下がってください」
「ま、まて、待ってくれ……!」

 カインは、取り外さたタラップが、完全に収納される間際に、それに足をかけて船に乗り込んだ。

「危ないっ! なにをするんですか!」
「すまない。緊急事態なんだ。フェルミさんがここにいるのか? 本当に?」
「ええ。船長が保護しております。非常に危険な状況のようでしたので、船長は取り敢えずフレイム国から離れたほうがいいだろうと判断されて、あちらについてからゲブリオ公爵に連絡する予定でした。その、敵味方がわからず、騎士団に連絡するにも憚られてしまい。黙っていて申し訳ありません。ですが、こうしてカインさんが来てくれて、我々としても助かりました。今は、甲板におられるはずですよ」
「そうか、でかしたっ! 素晴らしい判断だ。事の経緯は後で聞こう。まだ、彼女がここにいるのは、俺以外には秘密にしていてくれ!」
「はい、勿論です!」

 カインのあまりの血相を見て、船員はたじたじになりながらも、胸をなでおろした。船員は、船長とふたりだけで、重大な秘密を抱えていたことに不安を感じていたのだ。しかも、カインは不問にしてくれるどころか、褒めてくれたのだ。
 あとのことは、カインと船長に任せればいいと、鼻歌まじりに出航の最終チェックを始めたのである。

 カインは、船員から話しを聞くやいなや、フェルミを求めて甲板に走った。

「フェル──ッ! フェルミ、どこだ? どこにいる?」

 甲板に立つ人々の間を、美しい紅樺色の髪を探す。これほどの天気だ。もしかすると、金色を帯びた薔薇色に輝いているかもしれない。

 三回目の汽笛の大きな音に、自分の声がかき消されて舌打ちをした。

「誰か、美しい紅樺色の髪の女性を知らないか? 腰まである艶やかな髪は、光を浴びると薔薇色に見えるんだ。明るい太陽の瞳をしていて……」

 出航を楽しんでいる人々の肩を叩き、その都度声をかけた。迷惑そうに眉をしかめている。そんな、彼らの心中など知ったことではない。一心不乱に彼女を探し求めた。

「う、そ……」

 カインの髪で遊んでいる海の風が、小さな囁きを運ぶ。その蚊の羽音のような音を聞き逃さなかった。

 今のカインは、厳しい訓練を終えた時のように、全身が汗塗れだ。髪もぼさぼさで、酷い格好をしている。だが、一番乱れていた胸は、彼女の姿を捕らえるやいなや、すうっと波が引いていくように穏やかになった。代わりに、歓喜の大きな渦が発生する。

 ばちっとふたりの視線が交差した。

「あ、ああ、フェルミ……。フェル……ッ!」
「カイン……どうして……」

(ああ、間に合った。良かった……)

 はぁはぁと荒げた息をなんとか整えようとしても、どうすることもできない。

 カインは、やや強引に、ぐいっと彼女の腕を引く。すると、フェルミは彼の胸に、簡単に体を預けてくれた。
 普段は、襟元までぴっしりと閉めているというのに、今は上腹部まではだけられている。薄く白いシャツは、汗で肌色の隆起が透けて見えた。とても、女性の前に現すことのできない姿だ。

(せっかくの再会なのに、ひどい有り様だ。だが、彼女が無事なら、それだけでいい。神よ、俺のフェルをお守りくださり、ありがとうございます!)

 カインは、彼女の無事な姿を確認して、胸と思考がいっぱいになった。すぐに、自分に知らせてくれずグリーン国行きの船に乗っている彼女に、少々イラっとした。

「どうして、だって? それは俺のセリフだ。フェル、なぜ、グリーン国行きの船の上に、君がいるんだ。あんな、君を苦しめ続けた故郷など、放っておけばいいって何度も言っただろう?」

(ああ、俺は何を言っているんだ。ちがう、こんなこと、言いたいわけじゃなかったのに。彼女は何も悪くない。どうすることもできず、結果的にここにいるだろうに。責めてどうする!)

「……」

 カインの問いかけに、フェルは小さく首を振った。彼女の心を表しているかのように、小さな肩が震えている。

「すまない、そうじゃないんだ。気が急いてしまって、あんな事を言ってごめん。俺が不甲斐ないばっかりに、フェルを危険な目に合って怖かったよな? ブロック国のやつらから、よく逃げれたね……どこも怪我をしていないか?」

 ひとつ息を吸い込み、震える彼女に優しく問いかけた。フェルミはその言葉を聞き、彼の胸に顔を埋める。

「カインさんは、お仕事でいなかったんですもの。何も悪くありません。逃げようとしたところ、運良く船員さんと再会して。彼らは、私を攫おうとした人たちから助けてくださいました。船長様がたのおかげで、こうして怪我ひとつなく無事にいられたんです。あの、どうか、彼らに酷いことをしないでください」
「フェル、君って人は……。こういう時くらい、他人の心配なんかしなくていい。どうか甘えてくれ」

 いつだって、自分よりも他人を優先する彼女が誇らしくももどかしい。カインは、彼女を強く抱きしめた。そして、彼女の美しい髪を梳るように撫でる。

「君たちが、フレイム国の騎士団を信用できなかったのは理解しているつもりだ。君や船長たちに聞かないといけないことも多いだろう。俺が、絶対に悪いようにはしないから安心してくれ。だが、今は、そんなことはどうでもいい」
「カインさん……」

 彼女の体の力が抜けている。自分に抱きしめられ安心しているのか、すりすりと胸に頬を寄せられた。

「フェル、さっきはカインと呼んでくれたのに、どうして他人行儀なんだ?」
「え?」

 どうやら、彼女は先程自分をどう呼んだのか、記憶にないようだ。無自覚にカインと呼んでくれたことが嬉しくて、思わず口角があがる。

「カインと呼んでくれ」

 せっかく気持ちがおさまったというのに、目を赤くして自分を見上げた彼女を見た途端、心臓の鼓動が速くなった。

「フェル……おれの、フェル……」

 彼女の手をそっと掴み、手のひらに唇をあてる。ねだるように、優しく彼女の名をくり返した。

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