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 いよいよ、ラートが帰国する。フェルミは、部屋で彼が帰宅するのを待っていた。子爵夫妻が、港まで迎えに行っており、ふたりに留守をまかされていたからだ。

「お嬢様、そろそろ準備しませんと」
「ん? 何の?」

 彼の帰宅後すぐに食事ができるように、カロナとレドが朝から大忙しで準備をしている。トラムは、子爵夫妻と一緒に港町に行っており、フェルミとファーリは部屋の掃除などをしていた。
 それらが落ち着き、料理を手伝おうとしたところ、ふたりに固辞されたので、あとはやることがない。いつものように、火の国の言語で書かれた冒険ものの本を読んでいた。

「そりゃもう、マザコンをびっくりさせるために、美しく変身しておくんですよ」
「え? そんなのいいわよ」

 フェルミは、いくら着飾ったところで無駄だと思っていた。ラートを優しいと子爵婦人が言っていたが、本当に優しい人ならば、とっくに帰国して会ってくれているはず。
 今日帰ってからだって、煙たがられるか無視されるか、ひょっとしたら罵倒されるかもしれない。そのくらいなら、今までのように離れて過ごしたいのが本音だった。

「お嬢様は、すっぴんでもキレイですけどね。お肌もきめ細やかですし、スタイルは痩せ気味ですが出るとことは出ていますし。着飾れば、男たちが寄ってきますよ。勿論、マザコンだってぽーっと見とれるに決まってます」
「ふふふ、このままでいいの。お義母様にも、いつも通りにして待っていてって言われているし」
「そうですかぁ? 間抜けヅラが見れなくて残念です」
「ファーリったら。あ、帰ってきたんじゃない?」

 フェルミの部屋にまで聞こえるほど、玄関のほうが騒がしい。特に、いつもよりも1オクターブ高い、子爵婦人の興奮した声が届いた。
 ふたりが慌てて玄関先に行くと、子爵夫妻とトラムのほか、背の高いひょろりとした男性と、彼よりもふたまわりは大きな、がっしりした男性がいた。

「お義父様、お義母様、おかえりなさいませ」
「フェルミか、今帰った。紹介しよう、ここにいるのが息子で、お前の夫だ。これから、よく仕えるように」
「はじめまして、フェルミと申します」

 子爵が、フェルミにラートを紹介する。どうやら、ひょろりとした男性のほうが夫らしい。慌てて頭を下げるが、ラートは彼女がいないかのように、母親に声をかけた。

「……疲れた。母さん、風呂に入りたいんだけど」
「ええ、ええ。勿論ですとも。よく、帰ってきてくれたわ。準備は出来ているから、入ってらっしゃい」

 床を見つめていると、そんな会話が頭の上から聞こえる。フェルミの視界に入る6つの紳士靴と2つのハイヒールが、音を立てて家の中に入っていった。

「若奥様……」
「お嬢様……」

 フェルミは、ふぅっと短くため息を吐く。申し訳無さそうに、トラムだけが残り、ファーリとともに、彼女を気遣ってくれる。

 もともと期待はしていなかった。それに、ファーリが散々言っていただと言っていた通りの人物のようだ。それなら、変に関わってこられたり、手を握られたり、ましてや夫婦のやりとりをするよりも、こうして無視されているほうがよっぽど良いと笑顔になる。

「トラムは、お義父様のところに早く行かなきゃね。食事は、今後は部屋で摂ることになるのかしら。ファーリ、行きましょう」

(それにしても、大柄な男性は一体誰なのかしら?)

 フェルミが、全く悲しそうにしていないため、トラムは子爵の後を追った。ファーリは、ぷりぷり怒りながら、部屋に戻る。

「あー、思った通りでしたね。いえ、それ以上かも。お嬢様、これはある意味チャンスです。マザコンはどこまでいってもマザコンだったので、いつでもここを出ていけますね」
「そうね」

 フェルミは、先程まで読んでいた本の、しおりのページを開いた。

(ファーリが怒ってくれているからかしら? 思ったよりもショックを受けていないわ)

 自らの心の水面に、さざなみほどの波紋すら起こらないことが不思議で、本の続きとファーリのぼやきを心から楽しんだ。

「え? 食事に私も参加するの?」
「はい、奥様が、ラート様が帰ってきたのだから、とのことです」
「そう……」

(放っておいてくれたら良かったのにな……)

 思いがけず、食事に誘われびっくりした。しかし、明日からは考えていた通り、部屋で食べるのかと頷く。
 ここに来てから今日までが、平穏で、平和で、居心地が良すぎたのかも知れない。

 どう考えてもろくなことにならなさそうだ。今から食事をする時間、一体どのような扱いを受けるのだろうかと思うと、胃のあたりがしくしく痛んだ。

 トラムに案内され、食事の席につく。ラートの隣には、子爵婦人が座っており、食事が始まってもいないというのに、あれこれ世話を焼いていた。

「誰が、その女を呼んだんだ?」

 さも憎たらしそうに、ラートはフェルミを睨みつけながら大声を出した。同時に、力いっぱいテーブルを叩いたため、置かれたグラスが倒れそうになる。

「ラート、あなたが無事に帰ってきたから、私が呼んだのよ」
「母さんが?」
「ええ。あなたの妻になった子だからね。うちの嫁なのだから、今日だけは?」
「……母さんがそう言うのなら仕方ないな。おい、お前、母さんが優しいからって調子に乗るなよ? マジ、母さんに感謝するんだな。明日からはここに来るな」

 子爵婦人は、息子が優しい母だと褒めてくれたと喜ぶばかりで、フェルミへのフォローを一切しない。当のラートは、びしっと言ってやったといわんばかりに、鼻息をあらくして偉そうに胸を張った。

 子爵は、そんな母子の姿を重々知っているのか、苦笑をしたまま食事を始めようとひとこと言っただけであった。
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