狂愛サイリューム

須藤慎弥

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❤︎ ❤︎ ❤︎



 内臓がそのまま口から飛び出してきそうなほどの胃のムカつきは、約十年ぶりに父親と面と向かわなくてはならなかった時以来だ。

 憂鬱で憂鬱で仕方が無く、出来ることなら回れ右して逃げ出したいと後ろ向きなことを考えてしまうのも、あの時と同じである。


 ── はぁ……きもちわる……。


 約束の時間ギリギリまで車内で胃痛と戦い、あまりの緊張と億劫さに吐き気を催しながら、社長に連れられ料亭の廊下を歩いた記憶が昨日のことのように蘇ってくる。

 何気なく、車内の者らに変に思われぬよう腹をさするが、気休めにもなりはしない。


「セナさん、これからいよいよ向かうわけですね?」


 何食わぬ顔で運転している聖南の胸中を知らないディレクターが、背後で嬉々とそう声を掛けてくる。

 助手席からは絶えずカメラを向けられている状況で、本当は一言も話せる状態に無いのだが、聖南は根性で笑みを作った。


「いよいよ、か。そんなに新人アーティストに興味があったんだ?」
「そりゃもちろんですよ! セナさんが手掛けたETOILEがデビュー以降あれだけ大人気なんです! 我々としては、ご自身の活動のみならずプロデュース業にも力を入れているセナさんの動向に、ずっと興味をそそられています!」
「あぁ、新人じゃなく俺に興味があんの」
「いえ、両方です!」
「そうなんだ」


 マスコミ内には、〝新人アーティスト〟の噂が確実に広まっている。

 事務所から表立った発表はされていないにも拘わらず、春に聖南のプロデュースで女性歌手がデビューすることまでがなぜか周知の事実となっており、康平からのリークが無ければ聖南は終始不信がっていたに違いない。

 どこからともなく情報が漏れているのは明白で、ETOILEのように大々的に、出来る限り内密にレイチェルのデビューを画策していた大塚社長は、どこの誰が触れ回っているのかと首を捻っていた。

 その犯人など少し考えれば分かりそうなものだが、姪を信じている社長はまずそういう発想にすら至れないのだろう。

 だからこそ聖南は、康平から受け取った情報を社長に伝えることをしなかった。

 前回のようにゴタつくのを避けたいという思いもあるが、それを伝えて大ショックを与え、彼が深く傷付いてしまうことを一番に懸念している。


「ちなみに今日、その方が同席されるというのは本当なんですか?」
「そう言ったと思うけど」
「えぇ、しかし私どもカメラが入るとなると急遽欠席ということもあり得るかな、と……」
「それは無いな。打ち合わせの様子を撮るだけだろ? 欲しい画は撮れるんじゃない?」
「そうだと嬉しいのですが!」
「音声だけは消してくれよ。一応極秘で動いてるプロジェクトだからな。放送日がデビュー後だとしても、そこは約束な」
「はい! もちろんです!」


 『なぜ新人アーティストについてを知っているのか』、『どこからその情報を得たのか』、『どうしてその画を撮りたいのか』── 聖南は尋ねたいことをいくつも飲み込み、飄々としていた。

 作り笑いを極め、淡々といつも通りに応対する聖南は流石の一言である。彼らが本当は何を撮りたいのかを察していながら、余裕の笑みを浮かべ続けていた。

 本当は、今すぐにでもUターンして葉璃のもとへ行きたい。

 車内に同情する彼らや、向けられ続けるレンズが悪いとは言わないが、精神が限界に近付いている原因の一つにはなっている。

 これからさらに感情を殺さなくてはならない心理戦まで待ち受けているとなると、腹の中がぐるぐると引っ掻き回れているような不快感を覚えて当然だった。

 つい先日まで容易だったヒットポイントの回復も出来ず、徐々に削られていくのみで「体調が悪い」どころの話ではない。

 聖南がここまで追い込まれてしまったのも、ロクに食べ物を口にせず飲み物ばかりを胃に流し込み、体が異変をきたし始めているせいもあった。

 四六時中張られているおかげで、仕事中に葉璃と連絡を取り合うことすら制限されている今、会う約束さえ簡単には取り付けられない。

 葉璃不足が深刻化している事と、これまで感じることのなかった〝仕事上におけるストレス〟でまさに聖南の限界は近い。


「おっ、到着ですね!?」
「……ん」


 聖南が運転する車内からサムデイレコードの社屋が見えてきた瞬間、ディレクターのテンションが急上昇した。

 〝いよいよ〟渦中のツーショットが撮れるとあって、相当浮き足立っているように見える。

 これからノンストップで数時間は拘束されてしまうことを考えると、作り笑いも厳しくなってきた。

 そばのパーキングに車を停め、以前のようにそこで一人心を落ち着かせることも出来ないまま、聖南がエンジンを切ったと同時に早々と現場へと向かう密着取材班。

 ポツンと車内に残っても怪しまれるので、聖南は重たい胸中を隠し彼らの先頭を歩いた。

 ……が、受付の女性に顔パスで挨拶した瞬間、どうしても一人になりたい気持ちが抑えられなくなる。


「悪い、会議室行く前にトイレ行きたいんだけど。受付終わったらそこで待っといてくれる?」
「分かりました!」


 受付で足止めを食らっている彼らにそう告げるや、聖南はコートの裾が大きく膨らむほど大股でトイレへと闊歩した。

 先方には密着取材の仕事が入っていることは伝えてあるが、一スタッフである彼らはそれぞれの名前やテレビ局名、訪問理由等の記入を求められていて、それが三名分となると数分はかかりそうだった。

 これ幸いとトイレの個室に逃げ込んだ聖南は、ふぅと息を吐いて天井を仰ぐ。


「今日は……八時には帰ってるよな」


 小さな声で呟くと、おもむろにスマホを取り出した。

 ここ最近はいつ何時覗かれるかもしれないと、愛おしい恋人を待ち受け画面から外しているので、二重でロックを掛けた〝葉璃フォルダ〟を開かなくては目的の画像まで辿り着けない。

 小動物のように可愛い咀嚼中の葉璃に目尻を下げ、愛おしい想いで胸をいっぱいにする。

 葉璃の写真ならばいくらでも見ていられるけれど、見れば見るほど会いたい気持ちは強くなった。

 写真よりも実物の方が何億倍も可愛いことを知っている聖南は、眺めるだけでは飽き足らず触れたい欲求も増していく。

 少し高めの澄んだ声で「聖南さん」と呼ばれたいし、最終兵器の魅惑の瞳でジッと見詰められたい。

 聖南の愛情表現に未だに初々しい反応を見せてくれる葉璃と同等に、聖南も相変わらず、葉璃から見詰められるのに弱い。

 はじめは警戒心しか感じなかった視線が、いつしか甘く熱を帯びるようになったそのプロセスすべてを体感している聖南にとって、葉璃と目が合っただけで心臓がドキドキして敵わないのだ。

 約二十センチ下から可愛く見上げてくる葉璃が浮かんできた途端、聖南は耐えきれずにスマホを操作していた。


 〝会いたい〟


 今朝の『おはよう』のやり取りから唐突に、その一言を想いのままに送信していた。

 葉璃のスケジュール的に、今日は八時には帰宅しているはず。聖南の方の仕事がどれほど長引くかは分からないが、ほんの五分でいいから〝会いたい〟。

 同棲中いくつも盗み撮りした大好きな人を眺めていると、もはや我慢ならなかった。


「必死だな、俺……」


 葉璃との約束を破っているので、怒られるかもしれない。普段は鈍感で天然なうさぎちゃんのくせに、聖南の体や心の変化には目敏い葉璃に誤魔化しは効かないので、会えばおそらく……かなり叱られる。

 「聖南さん、痩せました?」から始まり、「なにやってるんですか!」と一喝され、「食べなきゃダメでしょ!?」と魅惑の瞳をキッと吊り上げ可愛い声で怒鳴られる。

 人として、年上の恋人として、あまり不甲斐ないところは見せたくはないのだが、葉璃にならいくら叱られてもいい。

 そんな癖は無かったはずなのに、と自虐的に笑んだ聖南は、握りしめたスマホに視線を落とす。


「え、……!」


 すると、雑誌の撮影真っ只中であるはずの恋人から、早くも返事が届いていた。


〝おれも会いたいです〟



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