僕らのプライオリティ

須藤慎弥

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10.君のプライオリティ

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「ゴホンッ。……そろそろいいか」


 背後から聞こえた咳払いに、冬季と李一は勢い良く振り返った。


「……あ」
「りっくんのお父さん! こんにちは」


 その姿を捉えるや一文字しか発さなかった李一に対し、冬季は立ち上がって頭まで下げている。

 立場上そんなにも気安く声を掛けられたことのない李一の父は、二人のもとまで歩みながら面食らっていた。


「……っ、こ、こんにちは……」


 李一は驚いた。なんとあの頑固一徹で嫌味しか言わなかった父が、少しばかり躊躇を見せはしたが冬季に挨拶を返したのだ。

 言葉を失った。

 あの日、この家から無断で飛び出し失踪した冬季が悪びれなく父に微笑んでいることも、父が彼の気兼ねしない様子を受け入れていることも、ただただ驚きでしかない。


「ふ、冬季くん? 父にそんな……」
「あ……そうだよね。りっくんのお父さん、ごめんなさい」
「いい。構わん。冬季のこの快活さを、李一も見習ってほしいもんだな」
「〝冬季〟!? あなたもどうしてそんな馴れ馴れしく……!」


 気安い雰囲気なのは、冬季だけでなかった。

 ここへ到着するまでの車中でしか会話をしていないと聞いていたが、李一の父と冬季からはそれほどギクシャクしたものを感じない。

 親戚からでさえ恐れられている李一の父を前にしてもまったく物怖じしていないとは、いったいどういう事なのか。

 他人とのコミュニケーション能力に自信が無いからと、アルバイトに就いても長続きしないと語っていた冬季が、だ。

 あげく、腰掛けようとした父に「あのですね、りっくんのお父さん」と冬季自ら話しかけていて、李一はギョッとした。


「口を挟んでごめんなさいですが、僕は快活なんかじゃないです。この間話したように、社交的でもないです。バイトでさえすぐクビになるようなコミュ障なので、りっくんが僕を見習う必要ないです。自分で歯医者さんを開いてるりっくんの方がよっぽど立派です。親のすねをかじってないので、すごく尊敬します。絶対絶対、僕なんかがいくら努力したってムリなことを、りっくんは自分の力で成し遂げているのでスゴイと思います」
「ふ、冬季くん……っ」
「フンッ」


 冬季が話し終えるまで起立していた父が、二人の対面位置にようやく腰を落ち着け鼻を鳴らした。

 褒めちぎられた李一はうっかり喜んでしまいそうになったが、向かいからの圧によって口元をだらしなく緩められない。

 李一を窺う目は、まさしくいつも通りである。ここ最近ようやく彼をあしらう術を覚えた李一にとって、この目と威圧的な視線もトラウマの一つだった。

 バチと視線が合ってしまい気まずさを覚えた李一の隣で、まったく気負いしていない冬季が何食わぬ顔で着席する。

 言いたいことを言ってスッキリしたような満足気な表情にも見えて、李一は信じられない面持ちで二人を交互に見た。


「そ、それで、俺たちに話とは? 必ず二人でここへ来るようにとおっしゃっていましたが、そうでなければならない理由が?」


 軌道修正した李一の向かいで、相変わらずの仏頂面を浮かべている父が腕を組んだ。そうすることで彼の威圧感はさらに増し、李一の顔も険しくなる。

 冬季を見つけたらすぐにここへ寄れと仰せつかっていたにも拘らず、交際に浮かれて父の存在を忘れていた李一だが今すでに文句を言いたい気持ちを堪えているのだ。

 医院の都合で全休が平日であるため、どこへ行くにも比較的空いている。李一は、冬季とようやくゆっくりとした時間を過ごせると柄にもなくワクワクしていた。

 心躍る休日を返上し、ただでさえあまり近寄りたくない実家へ渋々赴いているのだから、手短に、手早く父の件を片付けたかった。


「お前たちの母親が生前残した手紙がある。読む気はあるか?」


 そんな李一の心中を見透かしたように、向かいで一つ咳払いをした父が冬季と李一を順に見た。


「え、……」
「手紙っ? ママの……っ?」
「そうだ。入院中、看護士に預けていたらしい。それが今、私の手元にある」
「…………」
「…………」


 冬季と李一は、顔を見合わせた。

 〝お前たちの母親〟というからには、李一の母、そして冬季の〝ママ〟のことを言っているのだろうと推測した李一が、ふと冬季に視線をやる。

 表情から察するに、迷っているようだった。

 李一も、すぐに「読みたい」とはならなかった。


 ── 手紙だなんて……どんなことが書かれているか分かったものじゃない。


 二人に宛てたものなのかも、どちらか一人に宛てたものなのかもハッキリしないうえに、冬季への虐待を知ってしまった今、我が母親ながら恨み節でも綴っているのではないかと思うと読むに値しない可能性の方が高い。

 そんな風に逡巡する李一は、父に尋ねた。


「……あなたはそれに、目を通されたんですか?」
「いいや」
「なぜですか。何が書かれているか分からないのに、俺たちが目を通すのもおかしな話でしょう」
「…………」


 冬季と李一、それぞれの心情を鑑みれば分かることだろうと、静かに詰め寄る李一を前に父は黙り込んだ。

 これ幸いと、二ヶ月前よりはるかに父と対峙する恐怖が減っている李一が、燻っていた疑問を投げかけた。


「ずっと不思議だったんですが、なぜあなたが母の弔いを? 長いこと疎遠だったのではないんですか?」
「あいつがそれを望んだからだ」
「……はい?」
「去る前、あいつは自分に保険をかけてくれと言ってきた。育ててはやれんが、自分に何かあったら金だけでもお前に残してやれるようにとな。忘れられん男がおるからと、自ら私とお前のもとから去る決断をしたというのに。勝手なものだ」
「…………」
「お前の言うように、あいつと私は縁が切れておるはずだったが、亡くなった翌日に私の弁護士のもとへ連絡が入った。内縁の夫に先立たれたあいつは身寄りが無かった。あいつの唯一の家族は、お前ただ一人。戸籍は変えられんからな。役所がお前に一報入れるつもりだったんだろう」


 この時、長年の李一の疑問が二つは解消された。

 ただ一つ腑に落ちないのは、〝金を持ち逃げされた〟と父が憤っていた点だ。

 そのせいで李一は、実の父からとんでもなく暴利な金融屋のように粘着質な追い込みをかけられている。


「…………」


 金の事はさておき、解消された疑問を李一は知らず噛み締めていた。

 李一の母は、忘れらない男……つまり冬季の父のもとへいくために李一を置いて行った。泣く泣くかどうかは分からないが、遺してやれるものがあればいいと考えていたくらいには、もしかするとほんのわずかでも李一を愛してくれていたのかもしれない。

 母の悪評を植え付けられ洗脳され続けた李一は、そう容易く父の言葉を信じる気にはなれなかったけれど、それが本当であったら少しばかり悔いが残る。

 俯いてしまっている冬季の前では憚られたが、李一は思わず拳を握って込み上げてくる何かを堪え切々と言った。


「それなら……弔いくらい俺にさせてくれても良かったのではないですか……? 俺は、母のことを少しも覚えてはいませんし、あなたのおかげで憎むべき対象にまでなっていた。ですが何もかも事後報告だなんてあんまりです……!」
「それがあいつの望みだったのだと、ついさっき言わなかったか」
「意味が分からない! 亡くなった母が口をきけるはずがないでしょう!?」


 当たり前だ、と間髪入れずに返された李一は、よくないことだと分かっていながら奥歯を噛み締めた。



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