僕らのプライオリティ

須藤慎弥

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10.君のプライオリティ

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「わ、分かった。ごめんね、りっくん……っ! りっくんの気持ちは分かったから、あの……っ」


 体勢を変えてもらおうと音を上げた冬季をよそに、静かに怒っている李一は微動だにしない。低く甘やかな声を顰め、面白いように顔を赤らめた冬季をひたすら凝視している。

 寝室は李一の手によって暗闇である。しかし目が慣れてきた。真上にある李一のキリリとした顔が、冬季にはハッキリと見えている。

 つまりは李一にも、冬季の腑抜けた表情を見られているということだ。

 罵声は苦手だが、李一の怒り方は冬季の胸にグサリと刺さった。嫉妬と劣情を含んだ、こんなにも愛されていることが分かるお叱りなら、毎日でも怒られたいと思えるくらいにはときめいてしまった。


「勝手に申し訳ありませんが、想像ならしましたよ。それはもう、……たくさん」
「なっ……何を想像したのっ?」
「俺に言わせますか、それを」
「…………っ」


 さらりと爆弾発言をした李一が、冬季の頬を意味深に撫でた。

 熱過ぎるほどの手のひらの熱にも負けない、冬季の頬。暗がりで色みまでは分からなかった李一が、冬季の狼狽を感じ取りクスッと笑った。


「まぁ……冬季くんはそう言うだろうなと思いました」
「…………」
「俺に男性経験が無いので色々と不安を感じるのかもしれませんが、俺はそもそも人に対して欲情したのは冬季くんが初めてです」
「えっ!? りっくん童貞なの!?」
「ど、っ……!?」


 まさに渦巻いていた不安を言い当てられた冬季が、今度は李一を狼狽させた。

 李一ほどの男が童貞のはずはないと思っていた冬季に、李一の渾身の台詞が曲解されてしまい気まずい空気が流れる。

 冬季の脳裏に、我儘を言った初日のことが蘇ってきた。

 手を繋いで眠るとはどういう風な握り方がいいのかと、真剣に問うてきた李一に冬季は緊張の面持ちで手の握り方を教えた。

 交際経験はあるものの、女性と手を繋いだことはおろか性行為も致したことがないとは意外だ── と、誤解が得意な冬季は目を丸くした。

 李一は、そんな冬季の鼻頭を人差し指でツンと押し、「こら」と強制的に妄想をストップさせる。


「俺の言い方が悪かったですね。人に対してが初めて、ではなく、好きな人と向き合うこと自体が初めて、という意味です」
「あ、あぁ……!」
「さすがにこの歳で童貞はキツイものがあるでしょう。少しですが俺にも経験はあります。……冬季くんほどは無いかもしれないので、お恥ずかしい限りなのですが」
「うっ……」


 そう言われると、〝不摂生〟と〝不健全〟が代名詞だった冬季は何も言い返せない。

 かろうじて最後の一線だけは守り抜いているけれど、男性器を口に咥えることに躊躇いが無かったのは事実だ。

 痣を見たくないからという相手の都合で、暗闇の中で太ももを貸したことも一度や二度ではない。

 冬季の性器に触れてくれる者は一人も居なかったが、女性の代わりでも性の捌け口だとしても、求められているという実感が湧く行為は好きだった。

 それが李一が経てきたものよりも多いのかどうかは別として、これまでの経験を無しにしたいと思うほどには冬季は軽率な過去の自分を呪った。

 それと同時に、冬季は李一が童貞でなかったことにも軽いショックを受けた。彼の中では良い思い出でないのだろうが、人並みに経験があって良かったとは到底思えなかった。


「無知なもので、男性同士のセックスについてを俺は知りませんでした。様々調べて、ようやくあの〝元カレ〟が言っていた意味が分かりましたが、……同時にとても腹が立ちました」
「は、腹が……」


 李一が一蹴してくれた不安が別の形となって戻って来た瞬間に、また一蹴された。

 冬季よりも十年長く生きている李一が、まっさらなわけがない。冬季にも過去があるように、当然李一にもそれはある。

 頭では分かっていても、心がギュッと縮んだような痛みが走った。……はずなのだが、饒舌な李一があっという間に冬季の心を治癒してゆく。


「冬季くんはもちろん、過去の方々とそういうご経験があるんですよね?」
「…………っ!」
「不躾ですみません。ですが俺はもう冬季くんの彼氏……恋人です。君たちで言う〝今カレ〟というやつです。付き合っているからには、根掘り葉掘り聞いたって許されると思います。だって冬季くんも、俺のことが好きだと言ってくれました。冬季くんが聞きたいというのであれば、俺のつまらない過去話などいくらでも、洗いざらいお話したって構いません。ですので冬季くんも、観念して俺の質問に答えてくれると嬉しいのですが……」
「ちょっ、りっくん! 待って……っ」


 一度も噛むことのない怒涛の捲し立てに、冬季は咄嗟に両手で李一の口を塞いだ。

 それ以上は、冬季の心が保たないと思った。

 これが、李一の歴代の彼女達が「怖い」と言い放った〝根掘り葉掘り〟かと、納得がいった。

 まだ交際一日目だというのに、李一は凄まじいまでの独占欲をこれでもかと押し付けてくる。しかもそれを、冬季にまで強要しようとしている。

 重なった手のひらで李一の顔が半分隠れてしまったが、視線は〝怖い〟ほどに冬季だけを見つめていた。

 たしかに常人が相手であれば、整った顔で平然と捲し立ててくる李一に恐怖を抱いてしまうかもしれない。どれだけ好意を持っていても、少しばかり鬱陶しいと思うのが普通だろう。

 だが冬季は違った。


「あ、あの、あのね、りっくん! 今僕は凄まじい動悸と戦ってて……! あんまり追い討ちをかけるようなことを言わないでもらえると嬉し……っ」


 嫉妬心を顕にされるごとに、心音は速くなっていた。

 何かが始まってもおかしくない体勢で、熱心に見つめられながらの重たい好意は受け止めきれなかった。

 愛情を欲している冬季でさえ、キャパオーバーだった。

 ところが李一は、必死で訴えた冬季の手首をやすやすと掴み、口元を晒してニコリと微笑んだ。


「キス、しましょうか。冬季くん」
「へっ!?」
「ちなみに、だめ、は聞けません」
「なんで……っ」
「彼氏の俺がその気になってしまっているので」
「そ、そそその気にって……っ、ンっ……!」


 訴えを却下されたあげく、拒否権の無い唐突な口付けをされた冬季は、見開いた瞳をぎゅっと閉じて全身を強張らせる。

 顔をわずかに傾けた李一が迫ってくる瞬間がスローモーションに見えたにも拘らず、冬季は避けられなかった。


「ん、……っ」


 冬季の吐息をも吐かせない李一の唇が、何度も触れては離れを繰り返している。

 掴まれた右手はそのままに、冬季はただ降ってくる唇を受けて固まった。

 初めてだったのだ。

 最後の一線を越えていないだけで、多少なりとも性的な経験を積んできた冬季だがキスは未経験だったのである。

 「しましょうか」と何気ない調子で言われ吃驚し、素っ頓狂な声を出してしまったのが何よりの証拠だ。

 そのため冬季は、李一が唇を合わせてくる度にどうしていいのか分からない。

 何度も何度も、その感触を確かめるように降りてくる唇が、こんなにも柔らかくて温かいものだとは知らず驚いた。

 抱きしめられた時以上に心が跳ね躍り、李一の髪が頬にかかるくすぐったさで妙な気持ちにもなった。


「……今日はこれで。はぁ……緊張しました。俺も心臓が破けてしまいそうです。ドキドキしましたね」


 まったくそうは感じない声色の李一が、冬季の濡れた唇を親指で擦った。

 たっぷりと冬季の唇を堪能しご満悦の李一へ、じわりと瞳を開いた冬季は少々恨みがましい視線を向ける。


「……りっくん」
「はい?」
「勃っちゃったじゃん……どうしたらいいの……?」
「え、……」



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