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5.運命のいたずらで
・・・3
しおりを挟むまだ手が震えている。鼓膜には呆れ返った父の声が鬱陶しく残っているせいで、気持ちの切り替えが容易じゃない。
通い慣れた道だからこそ辿り着いたが、医院からマンションの駐車場までどうやって帰ってきたのかも覚えていないほど、心が激しく狼狽えていた。
ちょっと父と言い合ったくらいで情けない。
得意だった無感情が、いつしかこんなにも下手くそになっている。
俺のことをよく見ている冬季くんに、この狼狽を悟られぬようにしなければ。彼は俺の動揺をそのまま汲み取り、自分のせいではないかと気に病んでしまう恐れがある。
その生い立ちから、相手の顔色を見る癖が板についている冬季くんとは……出来ればこのどうしようもない気持ちを共有したくない。
駐車場から玄関までの短い距離に、普段の倍は時間をかける。〝平常心を保て〟と自分に念じていたのだ。
「──おかえり、りっくん! 遅かったね? 車いっぱいだった?」
「…………」
……あぁ……和む。
案ずるべきでないほど、ひなたぼっこをした冬季くんは元気いっぱいだ。
「ただいま」
ニッコリ笑顔につられていつも通りを装ってみたが、うまく笑えているだろうか。
顔の表情筋が引き攣っているのを感じながら、靴を脱ぎリビングへと歩む。……が、上着を脱ぎかけたそこで夕飯を買い忘れたことに気が付いた。
「りっくん? どうしたの? ……大丈夫?」
「え?」
立ち止まった俺に、冬季くんが駆け寄ってくる。前に回り、今はとても見つめ返せない無垢な瞳で見上げられた。
もう何かを勘付かれているのだろうか。
とぼけてみたが、鋭い冬季くんにそれは通用しなかった。
「顔色悪いよ」
「…………」
間髪入れずにそう言われてしまい、無意識に頬に触れるが熱くはない。そりゃあそうだ。冬季くんは俺に〝顔色が悪い〟と言ったのであって、それは〝何かあったのか〟に通ずる。
顔色を読むことに長けている冬季くんには、俺の狼狽がすでにバレているのだ。
見上げてくる視線が、もはや確信を持っている。俺の悪ノリに似た空気を、冬季くんから発している気がする。
「…………」
二十センチほど下からジッと見つめられ、目が泳いだ。
適当に言い繕って切り抜けられるものか、純真な視線をビシビシ浴びながらしばし考えた。
俺が何も話さないことによって、遠慮からくる不安を増幅させてもいけない。ただでさえ臆病な俺は、自身の素性を明かせずにいるのだ。そのくせ、彼からは対価を貰いすぎている。
誤魔化しがきかないなら少しだけ……ほんの少しだけ、それが冬季くんの負担にならないのであれば、彼に寄り添ってもらおうか。
「冬季くん、……飲みたい気分だと言ったら……怒りますか」
情けないと思いつつ、俺の言葉を待っている冬季くんに意を決して尋ねた。
突っぱねられるとは思わなかったが、怪訝な顔をされることは覚悟した。アル中だと誤解され必死で弁明した俺がこんなことを言えば、〝何かあった〟と白状しているも同じだからだ。
「え、りっくん飲みたい気分なの?」
「……はい」
「何があったかは教えてもらえない……?」
それほど驚いた様子のない冬季くんは、渋々と頷いた俺にこんなお伺いを立ててきた。
なぜ何も話してもらえないのかと不思議でたまらない日々を過ごしてきたことが分かる台詞に、俺の心も苦しくなった。
冬季くんになら話したっていいんじゃないか……一瞬だけそんな思いがよぎったものの、痛ましい過去を経験した冬季くんにだからこそ言えるわけがない。
俺の悲惨さは、冬季くんの味わった不憫さに比べればきっと、非常に薄っぺらいものだ。
安易に語るのも憚られる。
「すみません。何があったかは……難しいです」
「……そっか。うん、もちろんいいよ。りっくんが好きな時に飲まなきゃ! ここはりっくんのお家なんだし、りっくんのプライベート空間でしょ! 僕お邪魔なら外に出てるし……っ」
「外出はいけません」
「えっ……」
冬季くんが俺に遠慮して外出するなら、俺もお供する。一人で出歩いていいのはよほどの時だけだと、戸惑う冬季くんにもう一度言い聞かせた。
夕飯を買い忘れたことを告げると、「一食くらい食べなくてもいいよ」などと行き過ぎた遠慮を見せる冬季くんを説得し、デリバリーをオーダーした。
料理が到着するまでの間、いつものように俺は風呂を済ませようとしたのだが……一人だけの空間になるとどうしても先程の通話が頭をよぎってかなわない。
「母は……どんな人だったのかな……」
熱いシャワーの湯にあたり、この期に及んで母への未練を吐露してしまう。
はじめから愛されてなどいなかっただろうに、なぜ俺を産む決断をしたのか。
なぜ父の金に手を付けて逃げてしまったのか。
父が手切れ金として渡したのならともかく、母はそうしなくてはならない理由があったのではないか……。
俺は母についてを何も知らない。あえて気にしないようにしていたのかもしれない。
いつかどこかで再会できる、生きていればその機会は必ず訪れる……そんな淡い願いが自らの心にあったことさえ、俺は知らなかった。
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