僕らのプライオリティ

須藤慎弥

文字の大きさ
上 下
37 / 126
5.運命のいたずらで

・・・1

しおりを挟む

─ 李一 ─

◇ ◇ ◇



 世の中には、言葉では言い表せないほどツラい人生を歩んでいる人が大勢居る。

 患者とスタッフの世間話を小耳に挟んだ限りでは、大概が何かに対する不満か愚痴で、その人にはその人なりの考え方や苦労があるんだなとぼんやり思うことはしばしばあった。

 俺もそのうちの一人で、口に出したくなる気持ちは分からなくもない。誰かに話すことで心が楽になる場合も大いにあるからだ。

 だが冬季くんの過去は、たったあれだけの情報で聞いているだけで胸がキシキシ痛むほどツラいものだった。

 そして、比べ重ねるものではないのに、俺は勝手にさらなる親近感を覚えた。

 はじめから冬季くんを放っておけなかったのは、〝俺なら救ってあげられる〟と心のどこかで感じていたからなのかもしれない。

 寂しそうな目と、何も欲しがらない無欲さと、年齢より幼く見える無邪気な言動に少しずつ囚われていたのは事実だ。

 抗いようのない無抵抗な子どもに、痛々しい痣を付けた彼の母親に強い怒りが湧いた。冬季くんの心と体の両方を傷付けた人間が、まだこの世のどこかでのうのうと生きていると思うとゾッとする。

 似て非なるものだろうが、俺を精神的に殺した父親と冬季くんの母親はどこか重なるところがある。

 親近感を覚えたのも、そういう事なのだ。


「──李一先生、今日の十八時半の川辺さんは抜歯濃厚ですか?」


 医院の大きな窓から薄暗くなった空をぼんやり見上げていると、安達さんにカルテを手渡された。

 休診日の翌日は予約が立て込む。当医院の最後の予約時間の十八時半、今日は同時刻に三人詰まっていた。

 川辺さん……抜歯……。あぁ、軽度の動揺歯を固定した患者さんか。

 カルテを開き、レントゲンを確認すると先週の会話や治療内容が鮮明に蘇ってくる。


「前回スーパーボンドを使用した方ですよね」
「そうです。抜歯が嫌だと仰って」
「そうでしたね。今日は動揺具合を診てみましょう。周囲のカリエス治療が済めば、残存させて様子を見る選択肢も無くはありませんので。噛むことが出来れば良いのですが」
「じゃあ麻酔と抜歯セットは準備して滅菌室に置いておきますね」
「お願いします。ひとまずユニットにはCRと、念の為スーパーボンドの準備を」
「分かりました! 抜歯は誰でも嫌なものですもんね~」


 滅菌室に向かう安達さんの台詞に、俺は大きく頷いた。

 麻酔すら怖がる患者が多いなか、歯を抜くなんてもってのほかだろう。歯周病が進み、抜歯が致し方ない場合もあるが、俺は出来るだけ8020運動(八十歳になっても二十本以上自分の歯を保とうという運動)に則りたい。


「李一先生! 十八時半予約の原田さん来られました」
「検診の方ですね」
「はいっ」
「ユニットの準備が出来たらお通ししてください」


 二人目の患者が来院したらしい。

 みんな時間通りで助かる。


「李一先生! 十八時半予約の浅香さん来られました」
「浅香さんはインレーのセットでしたか。……デュラシールを外して患部と周辺の清掃が済んだら声掛けてください」
「はい、分かりました」


 世間一般で就業終わりとなる時間、こうして患者が重なると院内は一気に慌ただしくなるが皆もう慣れたものだ。

 バリアフリーの予備ユニット含めて計三台のユニットがすべて塞がり、定期検診患者への口腔清掃は衛生士の安達さんに任せ、俺は他二名の患者の施術を助手の古河さんと行う。

 片付けまで含めると終業まであっという間だ。

 家で待つ冬季くんがお腹を空かせているのではないかと気は急くが、仕事はおざなりに出来ない。いっそこの空間に冬季くんが居れば安心なのだが、さすがにそうもいかないもんな。

 明日は午後休診。

 近頃アルバイト探しに余念がない冬季くんと、美味しいものでも食べに行こうという計画を立てれば、一日の疲れなど吹っ飛んだ。


「あ、冬季くん。今仕事が終わりました。変わりありませんか?」


 車に乗り込んですぐ、冬季くんに連絡を取る。彼から壮絶な過去を聞かされて以来、俺はもっと冬季くんのことを放っておけなくなっていた。

 我ながら過保護だと思いつつ、ひとりぼっちで待たせている時間が心配でたまらない。

 電話口の冬季くんの声色で、刹那ホッとするほどには。


『お疲れさまー! 僕なら五時間前と変わんないよー』
「そうですか。それは何よりです。外出はしていませんか?」
『してませーん。お家の中を歩き回って、ベランダで日光浴したよ』
「ふふっ……、帰ったら冬季くん、おひさまの匂いがしますかね」
『お布団じゃないよ、僕』
「あはは……っ」


 「すぐに戻ります」と伝え、短い会話を終了する。俺のお願いを律儀に守り、家の中のお散歩とベランダでの日光浴で我慢してくれている冬季くんが健気で可愛い。


「……ずっと居てくれていいのに」


 熱心にバイト探しをして偉いと思う反面、そんなに急いで出て行く算段を付けなくていいと思ってしまう。




しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる

三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。 こんなはずじゃなかった! 異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。 珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に! やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活! 右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり! アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。

離したくない、離して欲しくない

mahiro
BL
自宅と家の往復を繰り返していた所に飲み会の誘いが入った。 久しぶりに友達や学生の頃の先輩方とも会いたかったが、その日も仕事が夜中まで入っていたため断った。 そんなある日、社内で女性社員が芸能人が来ると話しているのを耳にした。 テレビなんて観ていないからどうせ名前を聞いたところで誰か分からないだろ、と思いあまり気にしなかった。 翌日の夜、外での仕事を終えて社内に戻って来るといつものように誰もいなかった。 そんな所に『すみません』と言う声が聞こえた。

俺の好きな男は、幸せを運ぶ天使でした

たっこ
BL
【加筆修正済】  7話完結の短編です。  中学からの親友で、半年だけ恋人だった琢磨。  二度と合わないつもりで別れたのに、突然六年ぶりに会いに来た。 「優、迎えに来たぞ」  でも俺は、お前の手を取ることは出来ないんだ。絶対に。  

消えない思い

樹木緑
BL
オメガバース:僕には忘れられない夏がある。彼が好きだった。ただ、ただ、彼が好きだった。 高校3年生 矢野浩二 α 高校3年生 佐々木裕也 α 高校1年生 赤城要 Ω 赤城要は運命の番である両親に憧れ、両親が出会った高校に入学します。 自分も両親の様に運命の番が欲しいと思っています。 そして高校の入学式で出会った矢野浩二に、淡い感情を抱き始めるようになります。 でもあるきっかけを基に、佐々木裕也と出会います。 彼こそが要の探し続けた運命の番だったのです。 そして3人の運命が絡み合って、それぞれが、それぞれの選択をしていくと言うお話です。

芽吹く二人の出会いの話

むらくも
BL
「俺に協力しろ」 入学したばかりの春真にそう言ってきたのは、入学式で見かけた生徒会長・通称β様。 とあるトラブルをきっかけに関わりを持った2人に特別な感情が芽吹くまでのお話。 学園オメガバース(独自設定あり)の【αになれないβ×βに近いΩ】のお話です。

【完結・BL】胃袋と掴まれただけでなく、心も身体も掴まれそうなんだが!?【弁当屋×サラリーマン】

彩華
BL
 俺の名前は水野圭。年は25。 自慢じゃないが、年齢=彼女いない歴。まだ魔法使いになるまでには、余裕がある年。人並の人生を歩んでいるが、これといった楽しみが無い。ただ食べることは好きなので、せめて夕食くらいは……と美味しい弁当を買ったりしているつもりだが!(結局弁当なのかというのは、お愛嬌ということで) だがそんなある日。いつものスーパーで弁当を買えなかった俺はワンチャンいつもと違う店に寄ってみたが……────。 凄い! 美味そうな弁当が並んでいる!  凄い! 店員もイケメン! と、実は穴場? な店を見つけたわけで。 (今度からこの店で弁当を買おう) 浮かれていた俺は、夕飯は美味い弁当を食べれてハッピ~! な日々。店員さんにも顔を覚えられ、名前を聞かれ……? 「胃袋掴みたいなぁ」 その一言が、どんな意味があったなんて、俺は知る由もなかった。 ****** そんな感じの健全なBLを緩く、短く出来ればいいなと思っています お気軽にコメント頂けると嬉しいです ■表紙お借りしました

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

Take On Me

マン太
BL
 親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。  初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。  岳とも次第に打ち解ける様になり…。    軽いノリのお話しを目指しています。  ※BLに分類していますが軽めです。  ※他サイトへも掲載しています。

処理中です...