僕らのプライオリティ

須藤慎弥

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4.戸惑いつつも

・・・5

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『ママ許して!』
『ママごめんなさい!』
『ママ、熱いよ! 痛いよ……っ!』
『ママぁっ……!!』


 ──僕は泣き虫だった。

 どんなに痛いことされても、たばこの火を押し当てられても、髪の毛掴まれて投げ飛ばされても、泣かなきゃ良かったんだ。

 いい子にしてれば良かったのに、僕がわんわん泣くからママは怒った。

 記憶ではのっぺらぼうだけど、ママはとっても〝綺麗な人〟だっていう印象がある。でも起きてる時はいつもイライラして怖い顔をしていたから、僕はママの寝顔を見るのが好きだった。

 その時だけは穏やかな顔をしていたから。

 僕が施設に入って以来、パパとママには一度も会ってない。だから記憶の中の二人の顔がつるんとしてるんだ。

 あんなに抱き締めてほしかった人たちなのに、どうして会いたいと思わなかったんだろう。

 逃げたかったのかな。……やっぱり。


「冬季くん……」


 りっくんの声で、ハッと我にかえる。

 当時の朧気な記憶を蘇らせていると、自然と膝を抱えて丸まってしまうのはいつもの事だ。

 そうだった。今はりっくんに対価を支払う時間。

 身分証を持たない怪しげな未成年の生い立ちを知ってくれていれば、少なくとも僕への不審感は拭えるだろうし、しかもそれがりっくんの知りたいことなら一石二鳥。


「……僕、自分がいつ生まれたのか分かんないから、年齢も推定なんだ。りっくんには十九歳って言ったけど、ほんとはもっと若いかもしれないし、りっくんくらい大人なのかもしれない」
「…………」


 戸籍の無い僕を、どういう判断材料でそう言ったのか分からないけど、ガリガリの僕を診たお医者さんが『この子は成長が遅れている』と言っていた。

 あとは歯の生え具合がどうとか。

 思いのほか近くにあったりっくんの横顔を、チラっと盗み見る。すると何とも難しい表情で壁を見つめていて、年齢のくだりは要らなかったかなと僕は慌てて補足を入れた。


「あっ、でも今はちゃんと戸籍があるよ。十九歳っていうのもまぁ、お医者さんが言ってたんだから多分合ってると思うし。誕生日は適当なんだけどね。大体このくらいでしょってお医者さんが決めてくれた」


 僕が膝の間に顔を埋めてた隙に、ソファに片膝をついたまま動かなかったりっくんが、いつの間にか僕のすぐ隣に座っていた。

 慰めるように寄り添われて、今度は僕が動けない。ぴったりくっついた腕を離したら、意識してるのがバレちゃいそうでそのままでいるしかなかった。

 こっちを向いてないだけ、まだマシだ。

 至近距離のりっくんは心臓に悪いからな。


「……いつなんですか、誕生日」
「えっ、……六月六日」
「分かりました」


 ……な、何が分かったんだろ。

 神妙な顔で頷いたりっくんは、まだ壁を見つめている。前屈みになって両手を握り合わせてる姿は、いかにも仕事が出来そうなエリートサラリーマンみたいだ。

 考え込んでるだけで様になるとか、ずるい。

 それに、ここまで話す必要なかったのに、言葉少なにポロポロ答えを引き出すりっくんはマジでやり手だよ。


「りっくん、見て。最初に見せた根性焼きあるじゃん。これも、これも、これも、これも、ママがした。痛い記憶だけはしっかり残ってるんだよ。要らないのにね」
「……冬季くん……」


 やっと僕の方を向いてくれたりっくんに、むかしの証拠を見せながら精一杯の笑顔を向けた。

 切なげに名前だけ呼んで笑い返してはくれなかったけど、こんな話でニコニコされても怖いもんな。

 僕たちの中の暗黙のルールは〝深入りしないこと〟だった。でも、むかしのことを話して、馴染まない自分の誕生日まで明かしてしまい、それは僕だけのルールになった。

 僕がりっくんからバイバイする日がきても、きっとりっくん自身のことは何にも明かしてもらえない。

 だって僕は、何かを欲しがっていい人じゃないもん。


「…………」
「…………」


 りっくんは、言葉を失くしていた。

 言うことがなくなって黙ってる僕とは違い、 りっくんの僕を見る目が完全に可哀想な子に向けるそれで、ものすごく何か言いたそうだけど。

 こんな風に同情されたり面倒だと思われたくなかったから、今まで拾ってくれた人には僕のむかし話を一度もしたことがなかった。

 背中の痣や根性焼きの痕を見られても、リスカ常習犯だった僕はその時点でめんどくさい奴で、そのうえ自分語りまで始めたら超がつくほど鬱陶しい男じゃん。

 りっくんみたいに黙って聞いてくれるならまだしも、僕を拾う男は揃いも揃って軽いノリのパリピか中途半端なヤンキーだった。何気ない世間話に「へぇ」、「それで?」、「ふーん」なんて気のない相槌を打って話の腰を折る人が、僕の話をまともに聞くとは思えなかった。

 とはいえこんなに沈黙が続くと、だんだん不安になってくる。痛いほどの視線の意味が、「面倒くさい子を拾ってしまった」だったらどうしよう。

 たしかに僕は背負わせるにはめんどくさい過去があるけど、今の僕はあんまりお金もかからないし、何に対しても我慢強い方だし、色恋絡まなきゃ病むこともないし、ちょっとだけ社会不適合者かもしれないけど頑張りたい意欲はあって、りっくんの迷惑にならないように努力するからもう少しだけここに居させてくれないかな。


「あ、あの、りっくん……っ」
「お母さんだけ……? 冬季くんを傷付けていたのは、お母さんだけなんですか……?」


 たっぷり考え込んだりっくんから、絞り出すような声と悲痛な面持ちでそう聞かれ、僕は頷いた。

 人として成熟している大人なりっくんは、今までの人たちと比べるのも、僕が不安がるのも失礼なくらい人格者だった。


「お父さんは何をしていたんですか」
「……パパは痛いことしなかったけど、……見てたよ」
「見て、た……? 冬季くんが痛めつけられているところを、黙って見ていたというんですか?」
「……うん」


 小さかった僕にとっても、不思議な光景だった。大きくて強そうなパパより、ママの方がうんと怖かった。

 よく言えばかかあ天下、悪く言えばパパは僕と同じでママに逆らえないような雰囲気があった。

 今となってはどうでもいいことだけど。


「……っ、りっくんっ?」


 苦笑いした僕の手を、おもむろに立ち上がったりっくんが両手で握ってきて、抱えていた膝がくずれる。

 おっと、とよろけた体を支えてくれたりっくんは、そのあとすぐにまた僕の両手を握り直した。


「冬季くん、よく話してくれました。……ありがとうございます」
「な、なんでありがとうなの?」
「充分な対価を頂きましたので」
「…………?」


 両手にギュッと力を込められた。

 優しい気持ちがトクトク流れ込んでくるみたいに、いつでも温かいりっくんの手のひら。

 戸惑いに揺れる僕の目を、りっくんは決して離そうとしなかった。





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