優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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盲目の狼 ─和彦─

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 本当ですか? と問うと、七海さんは神妙に頷いてゆっくりとベッドに腰掛けた。

 開けては締めを繰り返している鍵を再び〝CLOSE〟に戻し、僕は七海さんを追い掛ける。

 触れたベッドのスプリングは硬かった。


「……じゃあどうして僕から逃げようとしたんですか? すぐに会いたかったのに七海さんは居なかった。七海さんが居てくれたから、今日の事も、これまでの事も、受け止められた。ありがとうございますって一番に言いたかったのに。それなのに……」
「に、逃げ……! てか俺はそんな、お礼言われるような事……」


 指先をモジモジし始めた七海さんの手を取って顔を覗き込むと、何とも懐かしい感覚に襲われた。

 僕の家に連れ帰ってすぐの頃を思い出す。

 それはたった一ヶ月くらい前の事なのに、随分と昔のように感じた。

 それだけ中身の濃い日々だったって事。

 七海さんに出会わなければ、何事もなく過ぎていたモノクロで単調な毎日が、こんなにも華やいで忙しないなんて知らないまま生きていた。

 弱さを隠して他人との壁を作り、自分の置かれた立場からも目を背け続けて腑抜けていたんだ。変われない僕は、ずっと。

 恋をして、僕の不甲斐なさを痛感して、前を向こうと奮い立つ事が出来たのは、七海さんの存在があったからに他ならない。

 顔を覗き込むと照れたようにそっぽを向きながら、しっかりと僕の手を握り返してくる温かな手のひらは愛おしさしかなかった。


「七海さん、ありがとうございます。僕と出会ってくれて、好きになってくれて、力になってくれて、ありがとうございます」


 言葉だけではとても足りない、この感謝がどうか……伝わりますように。

 手の甲に口付けて、ぎゅっと握る。

 僕のより小さくて色白な手に、微かにピリッと緊張が走ったのが分かった。

 瞬間、七海さんは僕の手を振りほどくと心臓辺りを掴んで呻いた。


「和彦、……苦しい……」
「え、っ? だ、大丈夫ですか? やっぱり病院に……!」
「違う。ここ、苦しい」
「ここ、?」


 人差し指が七海さんの胸元を指差す。

 どう見てもそこは心臓だ。

 苦しいと呻くくらいなら早く病院に行かなきゃ、と立ち上がった僕のスーツのジャケットの裾をじわりと七海さんが掴む。


「……聞きたくない事聞いちゃったから、苦しくて腹が立って和彦の顔見たくないって思った。だから先に帰るって言った。逃げたんじゃないよ。ちょっと頭冷やしたかっただけ」
「えぇっ? 僕の事嫌いになったんですかっ? 腹が立ったって……どこで何を聞いたんですか?」


 俯いた七海さんの言葉に絶句する。

 逃げたんじゃないと知っても、何にも安心出来ない。

 僕の顔を見たくないと思うほど、聞きたくない事を聞いた……? 頭を冷やして怒りを鎮めなきゃならないくらい、……?

 でも、七海さんには僕の負の部分は全部見せたはずだよ。

 僕に長所なんてないから、七海さんにもたくさんリストアップしてもらった短所が僕のすべてだ。

 そもそも、僕は変人だと分かってて「好き」をくれたんなら、七海さんには包み隠さず短所を曝け出してるのにな。

 ……また、良からぬ噂が一人歩きしてるんだろうか。


「七海さん?」
「……嫌いになったわけじゃないけど、言いたくない」
「そんな……話してくれないと分からないですよ。どうしてここが苦しいんですか?」


 七海さんが、顔を上げない。

 硬いスプリングに舞い戻った僕は、もう一度七海さんの手を取って表情を伺おうと躍起になるも、ぷいっと背けては俯くを繰り返された。

 なんだろう……これは……。

 怒ってる、というより、拗ねてる?

 七海さんがこうして怒っているような素振りを見せる時は、大体何かにイジけている。

 寂しかった、嫉妬した、と各場面で怒っていたけれど、話を聞いてみれば僕が思わず浮かれてしまうような事が多かった。

 なんたって、七海さんには前科がある。

 僕が良かれと思って距離を置いたあの期間、七海さんはずっと「恋」を「怒り」に変換して僕を追い掛けていた。

 もしかして今回も、……?

 早くも浮かれる準備を始めた僕に気付かない七海さんが、思わぬ言葉を呟く。


「いっぱい経験値あるのは何となく分かってたけど、……でも衝撃だったんだもん……」
「経験値? 何のですか?」
「…………エッチ」
「……!? な、何で急にそんな……っ」


 どういう事……!?

 僕の何かが七海さんをイジけさせてる、なんて浮かれようとしていた心に、一気に動揺が走った。

 嫌な予感がする。

 確かに、言ってなかった事があと一つだけ残ってた。けれどあれは、長所短所とかそんな甘っちょろいものじゃない。

 過去の僕は七海さんには知られたくなかった、というより、皆は違うんだと知って言わない方がいいと判断した。

 僕がギクッと体を強張らせた事で、七海さんがようやく視線を合わせてくれた。

 この純真な瞳を持つ七海さんにはきっと、恐らく、絶対に、理解出来ないだろう。


「しつこいって和彦は自分で言ってたし、無くもない話なんだろうなって分かってるんだけど……でもなんかリアルに想像しちゃって……ムカついて、苦しい……」
「な、何に衝撃を受けたのか、聞いてもいいですか?」


 恐る恐る、七海さんの瞳を見詰め返す。

 リアルに想像した、という台詞で言わんとする事が分かってしまったけれど、いつ、どこで、どんな風にそれを耳にしたのか。

 知られたくなかった事を知られて動揺している心とは裏腹に、イジけた七海さんが可愛くて知らぬ間に追及モードへと入っていく。


「…………エッチの時、相手の人に媚薬使ってたって……ほんと?」
「────!」



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