優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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盲目の狼 ─和彦─

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 これほどまでの怒りという感情を抱いた事がないからか、僕には自身がどうしてこんなに落ち着いていられるのかさっぱり分からなかった。

 目の前で取り乱していた占部さんが、まるで別人のように見える。

 今まで友人として普通に語らっていたあの占部さんは、もう居ない。

 恐ろしい変わり身に、僕の怒りの矛先は占部昭一だけでなく占部さんにも向いた。

 実は占部さんは何も知らずに、純粋に父親の手助けをさせられていたのではないかと、ここへきてもまだ僕は信じたくない気持ちを隠せなかった。

 けれど、このオフィスに足を踏み入れた瞬間の占部さんのニヤついた悪い笑顔を見ると、そんな女々しさは瞬時に消え去った。

 占部さんじゃない。

 僕の知っている占部さんは、虚像だったんだって。

 他人と話す免疫など皆無だった僕は、怒りの感情に任せて頭の回転の早さをフル活用した。

 こんなに嫌な人間だったのかと自分に嫌気が差すほど、皮肉がポロポロと口を付いて出てくる。

 不思議なくらい、爽快な思いだ。

 僕を陥れようとした占部さんにかける情など、もはやどこにも無かった。


「占部さん、そしてお父様である占部昭一はこの会社には必要ありません」
「────っっ」


 占部昭一のデスクに力無く腰掛けて項垂れている占部さんに、僕は最後の言葉を掛ける。

 顔を上げた占部さんは顔面蒼白だったが、少しも可哀想だと思わなかった。

 二度とあなたには会いたくない。

 そんな思いを込めて、拾い集めた僕のデータ書類をデスク上に置く。

 これはすべて、占部昭一がしでかした社内の毒。

 それに大乗り気で加担した占部さんも、毒にまみれている。


「罪を償い心を入れ替えたとしても、僕はあなたを許さない。会社と、僕という人間を裏切ったという事実は、この先もずっと付きまとう事でしょう。どうぞ苦しんで下さい。……人間社会は、それほど甘くありません」


 複数の足音が聞こえたそこで、踵を返した。

 ノックも無しにオフィスに入ってきた警察官四名が僕に目で合図した後、占部さんの元へ駆け寄る。

 取り押さえられた占部さんは、無抵抗だった。

 オフィスを出て行く間際、最後にチラと僕を見た瞳に、後悔が滲んでいなかった事が救いだ。

 最悪のまま、決別出来た。


「……ふぅ……」


 溜め息をひとつ吐いて、スマホをポケットから取り出す。

 パーティーが終わり次第こちらへ向かうと言っていた父へ、跡継ぎとしての役割をひとつ終えた事を報告しなければならなかった。


「……僕です。……終わりました」
『はいはい、駐車場で占部昭一も確保したってよ~! サイレン鳴らさないでってお願いしといたから、スムーズだったでしょ!』


 こんな事があってもあっけらかんとしている父の声が、今は何故だかホッとした。

 昔はこの能天気さが不気味でしょうがなかったけれど、この一件で僕にはまだ全部を見せていないであろう社長の顔を垣間見た。

 彼はあらゆる顔を使い分けている、トップになるべくしてなった食わせ者だ。

 警察を寄越していると話していた占部さんの言葉は偽りでも何でもなく、ただそれ以上に精通した父が手を回していた事を知ると、余計にその思いは強まる。


「あぁ……それで静かだったんですね。助かりました。……ありがとうございます、お父さん」
『思ったより決戦が早くてお父さんドキドキしちゃったよー! でも善は急げって言うからね。証拠も丁寧にまとめてあったからデータ丸ごと警察に渡しちゃうよ?』
「えぇ、別ファイルで音声と映像データをまとめたものも送信していますので、それも一緒によろしくお願いします」
『よーし、あとの調べは顧問弁護士と警察に任せよう! ……和彦、お疲れさん。七海君にもありがとうと伝えておいてね』
「もちろんです。七海さんが居なければ僕も、今回の件も、野放しのままでした。改めて、今まで本当に……ごめんなさい」


 今現在僕が持っている証拠は、七海さんと父が提供してくれたものに過ぎない。

 どうして今まで、何もかも一人でやれると過信していられたんだろう。

 社内の闇にも気付かず、時にはよくある事だと目を背け、自らの立場も軽んじて跡を継ぐのも嫌がって。

 僕は一人じゃ何も出来なかった。

 占部さんと対峙出来たのも、少しも心が乱れなかったのも、七海さんが僕と出会ってくれたからだ。

 そして両親は、腑抜けた僕を信じて待っていてくれた。

 一方では社員を蔑ろにしていると捉えられてもおかしくない、まさしく常人には理解出来ない親の愛情がひどく心地良いと思った。

 これまで、占部昭一からだけではなく幾多の場面で傷付いた社員さんの心のケアと共に、偉そうにも社内改革に携わっていけたらいいと、その考えに踏み込む勇気も持てた。

 変わりたい、ではなく、僕は変わらなければならない。


『……人間は失敗や挫折、痛みを経験しなければ成長出来ない生き物だ。逆に考えると、感情がある分いくらでも成長出来るとも言える。和彦はもう、昔の和彦ではないんだろう?』
「はい、そう信じています。会社とお父さんのお役に立てるように、これからもっともっと、人間として、社会人として、学ぶべき事を学ばなければと思っています」
『んー! 良い傾向だ! やはり対人関係というものは人を良い方へも悪い方へも変えるものだな! ……おっと、警察からお呼びがかかった』
「あ……。お父さん、中期決算前にお時間取らせて申し訳ありませんが、あとを頼みます」


 僕の著しい変化に喜ぶ父は、「任せておきなさい」と社長らしく力強い是認で安心をくれた。

 力の無い僕が手を下せるのはここまでだ。

 社内の不正疑惑は、長年それを僕のために放置していた社長である父の責任も問われてしまうから、明らかな真犯人を糾弾した後に世間には公に詫びなければいけない。

 それが大会社の定めであり、常だ。

 僕はその背中を、誰よりも熱を持って見守る義務がある。

 その場所にいずれ僕が立つ事のないよう、狭かった視野を広げて、大きな野心と志を胸に前を向く。

 大好きな人から教わった、孤独で居てはいけない理由と、人に「優しく」なる事も添えて。



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