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優しい狼
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しおりを挟む『──社長が居るのか、ここにっ?』
本社で働く女性社員に広まっている和彦の噂って、なんだろう。
身を乗り出した俺の興味を削ぐ占部の声に、直ちに現実に引き戻された。
さすがにあの音源証拠は占部にも予想外だったらしい。
ここへきてようやく、明らかな動揺を見せ始めた。
落ち着きなく占部が動き回る、焦燥感にまみれた足音がする。何かが倒れる物音と、積み重なった書類がサラサラと床に舞い落ちた音もする。
この場に居る俺と女性三人は、営業一課の雰囲気の変化を感じ取り、その気配に息を殺した。
『いえ、ここには来ていません。この件は僕に一任されていますので。なんと言っても、僕は陥れられた張本人ですからね。ここまで気付く事が出来なかった己を叱咤して、ようやく前進しようと前を向いた矢先でしたから、とても捗りましたよ。せっかく一任されたのですから、自分で解決したいじゃないですか。頑張っちゃいました』
『……なんだと……?』
『その書類と、先ほどの音源で察して頂けるかと。他にも証拠収集を行っていますから、あなた方……特にお父様の罪は残念ながらさらに増えてしまいます』
決定打を放った和彦の冷静さと皮肉は、占部にとどめを刺した。
オフィス内が静まり返る。
数分で警察が来ると言いながら全然こないし、占部は撃沈しているのか隣からは物音一つしなくなった。
「……声、素敵……」
「本当ね。凛としていらっしゃる」
「社長も年齢を感じさせない渋いおじさまって感じだから、息子の和彦さんも相当素敵なんだろうなぁ」
「早くお姿拝見したいね」
「……は、はは……」
状況が分からなくて、少しの声も聞き逃すまいと壁に耳を付けた俺の後ろで、女性三人が何やらヒソヒソ話を始めた。
……愛想笑いしか出ないよ。
自分が褒められてるわけでもないのに、本気でニヤつきそうになったのを耐えた結果が、愛想笑い。
「そうなんだよ、実はヘタレだけどめちゃくちゃ優しくてかっこいいのは確かですよ!」とドヤ顔で自慢してやりたい。
それが出来ない秘密の関係っていうのにも一人でドキドキして、愛想笑いが本物のニヤニヤになりそうだった恋愛バカな俺は咄嗟に口元を押さえた。
『……お、親父の奴、何してんだよ……っ』
たっぷり五分は静かだったオフィス内に、突然ドンッと大きな打撃音が響いた。
それは、どうしていいか分からない占部が八つ当たりでデスクを殴った音だった。
証拠の信憑性が和彦より下回ったと自覚した占部が、今最も縋りたい人物がなかなか現れない事に憤っている。
どこかに潜んでいる占部昭一は、絶対に録られてはいけなかった音源を聴いた事により、ここへ顔を出せなくなった。
しかし、共謀したはずの息子の元へ来ず単独で逃げようにも、それはほぼ確実に無理な話だ。
なんたって下には、キレ者で少しばかりお節介な後藤さんが居る。
『もっと僕が騙されていれば良かったんでしょうね。僕が気付かないでいれば、占部さんとも変わらず友人で居られたのかな』
『…………』
書類を拾い集める和彦の、静かな怒りと哀しみの声に心を締め付けられた。
……そうだよな。ここへ来て占部と対峙してもまだ、和彦の中では信じたくない気持ちがどこかにあるんだろう。
人間不信に拍車をかけて当然な事案に立ち向かえたのは凄いことだけど、それが俺のおかげなんて偉そうな事は思えない。
俺の存在が、前を向くきっかけになった。
それだけで充分だ。
『──占部さん、あなたの事は一生忘れません。図らずもあなたのおかげで最高の出会いを経て、最愛の人を見付けられました。その点だけは感謝いたします』
『……は?』
『ただし、情けは人の為ならず、が通用しないのが今の世の中……現代社会というものです。若輩者の僕にはまだ至らぬ点ばかりですが、善悪だけは分かっていたい』
『……う、うるせぇ! 俺とお前の立場が逆転するのはもう決まってるんだ! 今さらもう引き下がれるはずないだろ!』
『その通りです。引き下がってほしくない。そのまま悪の道に染まった占部さんで居てくだされば、僕の罪悪感が薄れます』
和彦、こんなに頭が回る男だったんだ……。
いつも「七海さん、七海さん」って大型犬みたいに懐いて同じ言葉を繰り返す、甘くて弱くて優しい姿しか見てなかったから、占部相手に次々と飛び出す皮肉めいた台詞がほんとに和彦から発せられてるのかと、信じられない思いだ。
しかもサラッと俺の存在におわせて皮肉ってたし。……かっこ良すぎるだろ。
僅かに顔面と首が熱を持った気がした俺は、近い終焉を見て壁からそっと離れた。
すると背後では、噂好きな女性達のヒソヒソ話が継続されていた。
「和彦さんって、社長の開かれるパーティーに出席すると必ず年上の女性と抜け出す……って噂あるよね」
「そうね、それはよく聞くね」
「あと、私すごい話聞いちゃったんだけど……」
「え、なになに?」
「……アレの時、媚薬使うらしいよ」
「媚薬……!?」
「凄すぎて付いていけないから、相手の女性に飲ませてるって噂」
び、び、び、媚薬……!?
キャーッと静かに騒ぐいつまでも若いノリな女性達を尻目に、俺は目が点になると同時によく分からないムカつきに心臓を庇った。
なんだよ、媚薬って──!
そんなの聞いてないよ……!
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