優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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優しい狼

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 本社ビル前はこの時間、当然ながら閑散としている。

 俺は地下駐車場でタクシーを降りると、仕事に行く時と同じエレベーターを使って営業一課のある五階を目指そうとしていた。


「おや、七海様……?」
「あっ後藤さん!」


 ぴたと足を止めて振り返ると、後藤さんが運転席から降りてくるところだった。

 後藤さんは柔らかく微笑み、やや不思議そうに首を傾げながら近付いてくる。

 俺がスーツを脱ぎ捨ててこんな格好してるから、そういう趣味でもあるんじゃないかと誤解されたら嫌だけど説明している暇はない。


「和彦様なら中に入られましたよ。いよいよですね」
「……はい、っ。和彦、どんな様子でした?」
「とても落ち着いていました。以前には見られなかった、覇気のある顔付きで何度も書類の確認をしておられて、……七海様、スカートが少々捲れ上がっております」
「えっ!? あっ……すみませんっ」


 指摘されて体を捻ってお尻を見てみると、ほんとにあと少しで下尻が出ちゃうよってくらい折れ曲がっていた。

 このタイトスカートには後ろにスリットが入っていて、ちょうどそこから折れている。

 視線を逸らし続ける後藤さんの前で、慌ててスカートの捲れを直し、ついでに髪の毛もささっと整えた。


「目のやり場に困りました。やれやれ。初老を超えた男をドギマギさせないで頂きたい」
「…………!」
「嬉しくないと思われるでしょうが、よくお似合いです」
「い、いいんですよ! そんなお世辞言わなくて! じゃあ、俺も行ってきま……っ」
「七海様も中に入られるのですか?」
「はい、あっ……でも、俺は割り込んだりはしないので安心してください。会社の事は和彦に任せなきゃ。こっそり聞いてます、……和彦の勇姿を」
「……七海様……」


 じゃ、と後藤さんに笑い掛けて、俺はエレベーターに乗り込んだ。

 俺が戦いに行くわけでもないのに、やけに緊張する。

 それは和彦に見惚れてドキドキするような甘酸っぱいそれじゃなく、手汗が滲んで、これからどうなるんだろうという大きな不安と心配で呼吸が定まらない、嫌なタイプの方だ。

 和彦は憤っていた。

 自分を陥れた事も、友情を利用された事も、親子で悪事を働いた事も。

 この事が分かった時、和彦はほんの少しだけ考えてすぐに「会社を取る」と言った。  占部に裏切られたと知る前からだ。

 あの時点ですでに、和彦の中で覚悟は決まっていた。

 あとは、情けを出すか出さないか。

 本当に占部との友情は失くせてしまったのか、それとも僅かな情をかけるのか。

 正直俺はデータ処理を手伝っただけで、和彦の気持ちすべてを知る事は出来なかった。

 肝心な事は話さない……というか勿体ぶるんだよな。

 あれはたぶん、今まで独りだった事が大きく関係している。

 何かあっても独りで抱え込んで、「何でもありません」と真顔で平然と言いのける和彦は、ひどく脆弱なくせに本当は強くなりたいと心から思ってる、無自覚の天邪鬼。


『~~ちゃったんだよな。和彦は違うって言い張るかもしんねぇけど、ほら。こんなに証拠が』


 五階に到着し、北側に少し歩いた突き当りに営業一課のオフィスはある。

 スマホがマナーモードになってるかをチェックしながら、忍び足で近付いていくと早速占部の声がした。

 あんまり顔を出すと見えちゃうから、窓の磨りガラスギリギリまで腰を屈める。


『見せてください』
『はいよ』


 か、和彦だ……っ。

 だめだな、俺……ちょっと離れてただけなのに、声聞いただけでキュンってしちゃったよ……。

 心境の変化って怖い。

 「好き」を自覚するともっと怖い。

 薄情で悪党な占部よりも俺の事見てよ、なんて無茶苦茶な事を言いながら飛び出して行きそうになる。

 ──そ、そんな事はもちろん、しないけど。


『これのどこが証拠なんですか?』
『は? よく見てみろよ。こんな少額不正、社内の人間がやると思うか? 危ない橋渡るには額が小さ過ぎんだよ。社内に精通した身内がちょこちょこやるには、ちょうどいいって感じ』


 占部の自信満々な声の調子と書類を捲る音から、どうやら捏造したデータを和彦に見せているみたいだ。

 中の様子をじっくり見てたいけど、俺の存在がバレたらマズイ。

 俺は会話する声に紛れて、音を立てないように営業一課と隣接した営業二課のオフィスに入って聞き耳を立てる事にした。

 和彦が友彦お父さんに全オフィスの解錠をお願いしてあると言ってたから、不審者を知らせるブザーは鳴らなくてホッとしたんだけど、真っ暗闇の静寂に包まれたオフィスは少し怖い。


『えぇ、そうですね。ただ僕はそんなにお金には困っていないのですが』
『だよな? だから俺も最初は信じらんなかったんだけど、決定的な証拠があってさ』
『決定的な証拠?』
『これ、見てみろ。……どっからどう見ても和彦だよな』


 ──後藤さんが言ってた通り、和彦……物凄く落ち着いてる。

 パーティーでも俺を気にする余裕があったって事は、今日で決着を付けると言った和彦の決意は少しも揺らいでいなさそうだ。

 決定的な証拠がある、と聞こえてから沈黙が続く。

 パソコンで映像でも見てんのかな。

 和彦は不正の犯人じゃないんだから、どんな証拠持ち出されても「証拠」にはならないだろ。


『…………』


 数分もの間、占部が逐一「ここ」「あと、ここ」などと和彦に何やら説明をしているみたいだけど、そのどれにも、和彦が反応する相槌は聞こえてこなかった。



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