優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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さざ波 ─和彦─

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 本来なら僕が気が付かなければならなかった、社内に蔓延る闇。

 恐らく氷山の一角に過ぎないそれを、洞察力の優れた七海さんは五日で見聞きしたというのに、生きながら死んでいた僕は腑抜けとしか言い様が無かった。

 信号待ちで、ルームミラー越しに後藤さんからの視線を感じる。

 心配気だった七海さんからは呆れたような溜め息を吐かれる始末で、身の置き場がない。

 前を向くんだと決めた矢先に、自惚れるなと我が身を叱咤せざるを得ないなんて、自分が撒いた種とはいえ本当に情けないよ……。


「……なぁ和彦、俺がリストアップした内容覚えてないの?」
「僕の短所……ですよね、覚えていますよ」


 ──七海さんがリストアップしたものと言えばアレしかない。

 繋いだままの手のひらをにぎにぎして、ざわつく心を少しでも落ち着かせようと無理に平静を装う。


「あれに書いてただろ。「自分勝手」で、「人の話を聞かない」。和彦は人間不信だって言うけど、大学での和彦見てて思ったんだ。俺と知り合う前の和彦は、講義受けてる間も、仕事してる時も、何を考えてたんだろって」
「…………」


 ──何も。僕は何も、考えていなかった。

 他人との接触は煩わしいだけ。

 友達なんか要らない。お世辞、愛想笑い、偽りの言葉、そんなの聞きたくない。 傷付きたくない。深く関わったら後が怖い。

 どうせ、どうせ、……。

 暗い影がじわじわと忍び寄る。

 幼子が叱られている時のようにジッと一点を見詰めたまま動かない僕の手を、七海さんがきゅっと握ってきた。

 いつもは僕が離したがらないのに、今は七海さんの方から力を込めてくれた。


「世襲は時代遅れだとか言って、自分の置かれた状況すら受け止めようとしなかった奴が、周りに気を配るなんて出来るはずないじゃん。自分がやるべき事は与えられた仕事をこなすだけ、……それでいいと思う?」
「……よくない、です」
「大学内での和彦もそう。あとほんのちょっと周りに目を向ければ、意外と敵ばっかりでもないじゃんって気付けたはずなんだよ。過去に何があったかは知らないけど、そうやって自分を省みる事が出来るようになったんなら、和彦にとってはそれが大きな一歩なんじゃないの?」
「……七海さん……」


 男らしくも温かい、七海さんのプチ講義がいつの間にか始まっていた。

 僕にも僕自身がよく分かっていなかったのに、七海さんにはどうしてすべてを見透かされてしまうんだろう。

 他人が嫌だ、関わりたくないとあれだけ壁を作っていた僕が、七海さんにだけは自ら話し掛けた。

 例の噂を半信半疑ながら信じてしまい、慣れている素振りで七海さんの気を引こうとした。

 後から考えてみると、僕が自分の意志で動いた事って相当に久しぶりだった気がする。

 噂の確証なんかどうでもよくなって、七海さんの事が欲しくてたまらなくなって、目が離せなくて、触れてみたくて、僕以外の男に抱かれる想像をして、……激しく嫉妬した。

 驚愕と落胆を一度に味わわせてしまった七海さんには、今でも謝っても謝りきれないけれど、やはり僕には必要な出会いだった。

 あれは紛れも無く、僕にとっては最高の出会いだった。

 諭してくれようとする七海さんは、後藤さんの目を気にしてなのかやや声のトーンを落として続ける。


「大学内で唯一まともに話せるのが占部だって言ってたよな、和彦。だから、私情挟むなよって言ったんだ。解決すると、占部との関係も考えないといけなくなるかもしれないだろ。たぶん……今まで通りではいられない」
「……そう、ですね……」
「和彦なりに、占部とはいい関係を築いてこれてたと思うんだ。せっかく友達になれたのに、父親のせいでその関係が崩れてしまう……もしそうなったら、和彦はどっちを取るの」


 占部さんのお父様の名前を聞いた瞬間、当然浮かんだ究極の選択を七海さんから迫られ、狼狽えた。

 継がなくてはならない会社と、親しくしてくれていた僕にとっては貴重な友人と呼ぶに相応しい占部さん。

 どちらも失くしたくない。

 信じたくなかったのは、その決断を早々と付けなければならないと分かっていたから。

 僕には選べない──腑抜けたままの僕ならば。

 けれど今、七海さんは言ってくれた。

 後悔するだけでなく、自分を省みる事が出来るようになったのならそれは大きな一歩だ……と。

 一進一退を繰り返す僕に、その時一番欲しい言葉をくれる七海さん。

 情けない男だと呆れられてもおかしくない僕を、真っ直ぐに導いてくれる。

 僕もそうならなければいけない。

 自身のため、何より七海さんのために。


「──会社を取ります。……見過ごすわけにはいきません。セクハラも、不正も、知っていたら僕は動いていました。その意気込みだけはあったんです。幹部になるつもりは毛頭無くても、会社のために生きようとは常日頃から思っていました。……見付けられなかった僕が言ってもなんの説得力もないでしょうけど」
「ない。ないね。でも和彦はもう、自分は何がダメで、何をしなきゃいけないのかって気付いたんだろ? ちょっと前に俺にしつこく「気付きましたか」って言ってた時の和彦、めちゃくちゃドヤ顔してたんだからな。調子乗らせたら嫌だから言わなかったけど、あの和彦は……」
「ぼ、僕が何か……?」


 珍しく言葉を詰まらせた七海さんに不安を覚えて顔を覗き込むと、さっきよりも小さな声でボソボソと何事かを呟いた。

 恥ずかしそうに俯く頬をピンクに染めて、不安を一蹴させるその呟きに僕は…七海さんの事が大好きだと、しみじみ思ったんだ。

 七海さんからもたらされる、さざ波のような心の動揺がひどく心地良い。

 大きな一歩を踏み出した僕には、その小さな動揺が重要だった。

 怖がっていては前に進めない。

 悪事を裁くために必要なのは、今まで避けてきた「見通す力」を養う事。

 七海探偵に指南を仰ごう。

 一歩どころではなく、何歩も何十歩も前へ進むべく。





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