優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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さざ波 ─和彦─

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 僕の七海さんがびしょ濡れで帰って来た。

 水を飲もうとして全部溢れたなんて言い訳が、通用するはずないでしょう。

 何かあったんだ、絶対に。

 「気が晴れた」の意味が未だに不明なのは、あの翌日から昨日までは何事も無かった……だから聞くに聞けなかったんだ。

 あんまりしつこく聞き出そうとすると、七海さんは怒って向かいの部屋で寝るって言い出すし……。

 実際に一昨日、軽く追及した僕を鬱陶しがって「もうあっちで寝る!」と、プンプンしながら寝室を飛び出そうとして肝が冷えたんだから。

 本当に教えてくれないんだと分かると、信用してもらえていないみたいで悲しくて苦しかったけれど……それならばと、僕は自分で突き止める事にした。

 仕事のちょっとした合間に七海さんの様子を見に三階まで降りて行って、黙々とパソコンに向かっている姿を見守り、変わった事がないかを確認してみた。

 ──変わった事は無かった。今日までは。

 週末で忙しく、オフィスを離れる事が出来なかった今日に限ってびしょ濡れ事件が発生するなんて……。


「……和彦、痛い」
「すみません。でも我慢してください」
「嫌だよ、痛いんだってば。力抜いて」


 華奢な体を羽交い締めにした僕の腕の中から、にょきっと可愛い顔が出て来た。

 足がぴょこぴょこ動いていないのに、まだ起きてたんだ。

 愛おしい七海さん……僕の追及から逃れるために寝たフリしていた、悪い子。


「僕も嫌です。少しでも力緩めたら、七海さんあっちに行くんでしょ」
「……行かない」
「嘘ですね」
「……なんで決め付けるんだよっ」
「七海さんがちょっと考えて発言する時は、ドキドキしてるか嘘吐いてるか……かな、と」


 見上げてくる七海さんのふんわりとした頬を触って、サイドの髪を耳にかける。

 眠そうに目元がとろんとしていて、それでも頑張って起きていようとするのはやっぱり……「話せない事」を僕には打ち明けたいんじゃないのかなと思った。

 本心が知りたくて七海さんの瞳を見詰めていると、押し殺している煩悩がムクムクと頭をもたげて、キスしたくなってきた。

 ──ダメダメ。七海さんからまた怒られてしまう。毎日エッチしたら体が保たないって、怒りながら泣こうとするんだよ。

 そうは言っても僕はまだ、すごく加減しているのに。

 煩悩に打ち勝つために、まだ慣れないオレンジブラウンの髪をひたすら撫でていると、くすぐったそうに瞳が細められた。


「他人とはあんまり目合わせないくせにぃ……俺の事はよーく見てんのな」
「もちろんです。大好きな人の事はほくろの数まで知っておきたいものです。知っていましたか? 七海さん、うなじに一つ、腰に一つ、太ももの付け根に一つ、左足の小指の先に一つ、ほくろがあるんですよ」
「全部見えないとこ! 知るわけないだろっ」
「そうなんですよね。それを知っているのが僕だけなんてもう……最高の気分です。ところで、びしょ濡れの経緯は?」
「またそれかよ! さっきから何回も説明してるだろ、水溢したの!」


 頬をピンクに染めて、足が落ち着き無くぴょこぴょこし始めた。

 動揺した流れでポロっと打ち明けないかなと期待したのに、七海さんは意外と口が固い。

 それも嘘だって分かってるんだよ、七海さん。


「あり得ませんね」
「あり得るんだ! 俺は飲み物うまく飲めないから、よだれかけ的なやつが必須なのかもしれないっ」
「……それはすごく可愛いですが……あ、可愛い」
「即行で妄想するなよ!」
「七海さんはですね……白か、薄い水色のものが似合いそうです。あっ待ってください、よだれかけより首輪の方が可愛くないですか? ほら……チリンチリンって鳴る鈴付きの!」


 ……七海さんの発言は、ほとんどが僕の頬を緩めてしまうんだけど。

 赤ちゃんがするような、よだれかけを付けた姿を想像すると何だかいけない事をさせてしまっているようで興奮ものだし、首輪を着けた七海さんはもはや想像だけに留めておきたくない。

 絶対に手に入れよう。肌を傷めない柔らかな青色の生地で、鈴は小さめで軽い音がするもの。

 何なら今からでもオーダーしなきゃ。


「水溢した話はどこ行ったんだ……」
「ほんとだ……! ダメじゃないですか、七海さん。そうやってすぐに僕を魔性の世界に引き摺り込むんですから……可愛い小悪魔ちゃん」
「それやめろっつの!」
「何をですか? 妄想?」
「違うよ! こっ、小悪魔ちゃん……って、やつ……」
「え? どうしてですか。ピッタリですよ、僕に隠し事をする小悪魔ちゃん」
「隠し事なんか……っっ」


 まんまと七海さんの魔性にやられた僕は、色白の肌に映える色は何かと考えていた。

 やっぱり青色はやめて、赤紫色にしよう。

 こんなに口が固いなんて思わなかった七海さんへ意地悪に言ってみせると、今にも「あっちで寝る」と言い出しそうに下唇が出てきた。

 怒っているのか、拗ねているのか、納得いかないって顔をして僕を見詰める魔性の瞳は、煩悩をあっさりふっ飛ばしてしまう。


「してないと言えますか? 言い切れるんですか? 僕は人間的には変ですけど、頭は悪くありません。七海さんの考察力には負けるかもしれませんが。僕は七海さんの事は何でも知っていたいんです。何かあるのなら話してください。頼ってください、七海さん」
「……っ! 和彦っ、約束は明日、だろ……っ」
「こんなに口が固いとは思いませんでした。僕の七海さんは男気溢れる素敵な小悪魔ちゃんです。明日首輪を調達したいので、首周りを計測させてください」
「はっ? ちょっ、和彦! 何を……っ」




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