優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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さざ波 ─和彦─

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 七海さんのキラキラだった金髪が、以前よりかなり落ち着いた髪色になった。

 オレンジブラウンって言ってたっけ。

 少しだけ毛量を減らして毛先を切りました、と美容師さんに伝えられた僕は、仕上がった七海さんがあまりに素敵で、鏡と本人を何度も往復して見てしまった。

 わざわざ施術直後に僕に伝えに来てくれた美容師さんは、施術前からしきりに七海さんを構う僕を見て何かを勘付いちゃったみたいだけど……それならそれでいい。

 今日は話し掛けないでオーラを出さなかった事で、美容師さんは退店直前まで色々とヘアケアについてを語ってくれたけれど、僕には何が何だか分からなかった。

 七海さんが隣に居てくれたおかげで、人と接するのが嫌じゃなくなっていた事にせっかく気付けたというのに、現在、僕と七海さんは離れ離れの階で仕事をしている。

 営業一課に配属された僕は、自社製品を卸している企業相手に新たな製品を勧めるために営業社員が持つ、資料作りを任されていた。

 手広く様々な品を扱っているから、いきなりの長期休暇(病欠含めだ)を取られてしまうと、やらなければならない事がどんどん先送りになって、スムーズに仕事が進まない。

 そんな不測の事態に備えて、父の会社では、通常業務終わりの短時間の派遣バイトやインターンシップ制度を積極的に活用していて、ブラック企業に名を連ねないように相当に気を配っている。

 厳格な父が考えそうな事だ。

 僕は一年半、何食わぬ顔で派遣バイトとしてここに勤めているけれど、まだ目立った問題は見付けきれていない。

 女性社員同士の小さな揉め事や、上司から部下に対するパワハラめいたものは正直見た事がある。

 しかしそれはどこの職場でもあり得る程度のもので、他人の目があるところで行われるそれは皆が周知の事実として受け入れている。

 目に余る事があれば僕も黙っているわけにはいかなかったんだろうけど、その境界線が非常に曖昧だ。

 皆が愛想笑いをするせいで、社交辞令がはびこるせいで、僕には判別がとても難しい。

 そして、社会に出たての僕みたいな若輩者がものを言うのはあまりに軽率で、発言に説得力を持たせるためには、もっと人生経験を積まなければいけない。

 佐倉の姓に生まれ、時代遅れな世襲でこの会社を継がねばならないレールの上に居るのなら、甘い考えだった僕に直球過ぎる正論をぶつけてきた七海さんの言う通りにするのが一番だ。

 会社のために生きていく。

 そんな事を偉そうに思っていた僕の決意なんか、今考えると軽薄過ぎて笑えてくるよ。

 僕は何をしていたのか。

 これまで生きてきた二十年間、何を学んできたのか。

 子ども騙しのような噂に乗って裏も取らずに、不確実な剥き出しの興味だけで七海さんを貶めようとした僕に、どれほどの説得力があるっていうの。

 恋を知らずに意味も無く体を繋げてきた過去も、要らぬ言葉の刃に傷付いた過去も、デリートキーを使ってすべて消してしまいたいよ。

 七海さんだけがいい。

 僕の記憶丸ごと、七海さんさえ居てくれればいい。

 
 完璧な人間なんか居ない。
 間違いを犯して、反省して、色んなこと経験して、それを糧に前に進むんだよ。


 突然の、芯を食う七海さん講義には本当に痺れた。

 ──惚れ直してしまった。

 こんなに大切で、当たり前で、誰しも気付くべき肝心な事が、僕には欠けている。

 けれどきっと、他の誰が言ったところで心に響かなかっただろう。

 七海さんが僕だけに向けて言ってくれた事に、大きな大きな意味がある。

 僕の腕の中で、過ちを犯して忘れてはならない後悔を抱える僕の未来を、何気なく、照らしてくれた。

 変わらなきゃ。……そう思えた。

 出会ってすぐだとか、関係ないんだ。

 僕は七海さんの事が好き。

 誰に対しても向けようとしなかった「優しさ」を、七海さんにはたくさんあげたい。

 恋する事を夢見ていた七海さんに、はじまりが最悪だった僕の変わっていく姿を見ていてほしい。

 だから七海さん、いつまでも怒っていて。

 後悔と愛の狭間で、僕は七海さんと生きていきたいから。

 僕の後悔は、決して軽くしてはいけないから。





「七海さん! どうしたんですか、それ……っ」


 バイトを始めて五日目の帰り際、僕は地下駐車場で毎日そうしているように七海さんがやって来るのを待っていた。

 七海さんがそうして、って言うから、三階のフロアには寄らないで地下まで真っ直ぐエレベーターで降りてきた。


「あ、いや……水飲もうとコップ傾けたら見事に全部溢れて。小さい子みたいだよな」
「そんな事あるんですか? ……風邪引きます、とりあえず車へ」


 現れた七海さんの上半身がびっしょり濡れていて、ギョッとしながら確認した背面はサラッとしている。

 疲れた様子の七海さんを急いで後藤さんの車に乗せて、僕はシャツを脱いだ。


「七海さん、それ脱ぎましょう。家まで僕のを着ていてください」
「えっ? いや……いいよ、そんな……」
「言う事を聞いてください。そんな絞れそうなくらいびしょ濡れだと、風邪を引いてしまいます」
「……分かったよ」


 渋々と七海さんがTシャツを脱いだ。

 ──あ、あれ、七海さん肌着着てないの……っ?

 突然目に入ってきた麗しい体躯を直視出来なくて、咄嗟に顔を背けて濡れたTシャツを受け取る。

 僕の紺色のYシャツを着た七海さんは、体格が違い過ぎてまるで着せられている感じになってしまっているけれど、それがあんまり可愛くて思わず二度見した。

 袖なんか、指先しか見えない。


「ありがと。和彦はTシャツで平気?」
「大丈夫ですよ。それにしても可愛らしいですね、びしょ濡れの原因を追及するのも忘れてしまうほど」
「いや、だからそれは俺が水を……!」
「帰ったらお話してくださいね」
「なっ……」


 ……うまく笑えている自信は無かった。

 僕が下手な笑顔を向けると、七海さんはハッとした表情をしたから……何かあったのは確かだ。

 袖口ごと七海さんの手を握ってみると、微かな動揺が伝わってくる。



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