優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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さざ波 ─和彦─

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 もっと早くに出会いたかったと悔いる場面は多々あったけれど、おかしな僕はこれまでの人生を振り返るために、今、七海さんと出会った。

 出会いが遅過ぎたんじゃない。

 今じゃないと駄目だった。

 他人を遠ざけて、生きる上で大切なコミュニケーション能力というものを学んでこなかった僕に、突然始まる何気ない講義で諭してくれる七海さんが居なければ、人の気持ちなんて一生考えようとは思わなかった。

 七海さんは、合コンで知り合った男達への諭しに自信を持っていた。

 言葉で人の心を揺らす事なんて出来ない、彼らの気の迷いは七海さんの内から放たれる魔性のせいで、「どうしてか忘れられない存在」になっただけ。

 僕はそう信じて疑わなくて、だから猛烈に嫉妬して、無闇に魔性を振り撒かないでと言ったんだけれど……。

 それはちょっとだけ間違っていた。

 七海さんの言葉は胸を打つ。

 汚れのない真っさらな思いが、きちんとその言葉と視線に乗っている。

 無意識に振り撒かれる魔性は確かに在るけれど、可愛らしい小さな唇から漏れる温かくて優しい核心を突いた言葉達は、心の芯に深く入り込んでくる。

 それは、声や口調も相まって、深く、深く。

 僕は、諦めていた事を諦めない事にした。

 叱って、諭して、僕が暴走しても抱き締めてくれる七海さんが隣に居てくれるのなら、前に進んでみてもいいかもしれないと思った。


「……僕、七海さんに優しく出来ていますか」
「はっ?」
「昨日言っていたじゃないですか。七海さんだけに、僕は優しいって」
「いや、言ったけどっ、場所を考えろよ!」


 シーッと人差し指を唇にあてた七海さんは、美容師さんの目を気にして小さくなった。

 そうだった。  現在七海さんは、大きな鏡の前に腰掛けて黒いケープを巻かれ、カラーリングの真っ最中だった。


「すみません。出来ているか出来ていないかだけ、教えてください。それを聞いたらあっちに行ってます」
「出来てる! 甘過ぎるくらいだと思う!」
「そうですか……良かった。僕、大好きな七海さ……」
「おいおいおいおい! その話は帰ってからしよっ、なっ? ……すみません、続けてください」


 小声で僕に耳打ちする、動揺したあたふたが可愛い。

 真っ赤になった七海さんを鏡越しに見て微笑んでいると、居心地の悪そうに苦笑したお洒落な美容師さんの姿も目に入って、軽く嫉妬した。

 美容師さんは単に仕事をしているだけなんだから、嫉妬なんて間違ってるんだけど……。

 あっ、僕の七海さんに触ってる……! 七海さんに触っていいのは僕だけなのに……!


 ここは個室で施術してくれるところだから、僕が待合室に行ってしまったら七海さんと美容師さんが二人きりになってしまう。


 ──でも、七海さんの瞳が「あっちで待ってなさい」って言ってる。


 ……七海さんの言う事は……聞かなきゃ。


「いいもん。僕はさっき「カッコいい」って言ってもらえたから、あと一時間くらいなら我慢できる」


 移動してきたこの待合室も個室だから、他の誰も僕の妄想の邪魔はしない。

 読みもしない雑誌を太ももに置いて、足を組んでニヤけた。

 ただ、綺麗に磨かれた大きな鏡が目の前にあって、そこに僕のニヤけた面が映し出されていたからそこだけは一人で気まずさを覚えた。


「いけないな……また後藤さんに頬が緩んでるって言われちゃう」


 だらしなくニヤけた理由は、ここに来る前の車中での会話にある。

 どうしても僕の行きつけの美容院に行く事を渋っていた七海さんに、「僕も髪を切りますから、どうか遠慮しないで付き添いのつもりで来てください」、そう言って無理やり納得させた後だった。


『和彦、どれくらい切るんだ?』
『そうですね……僕はいつも、担当してくれる美容師さんのおまかせなんです。短めで、とか、長めで、とか、要望はそれだけ』
『そうなんだ』
『はい。前回は長めでってお願いしたので、今ちょっと伸び過ぎていますよね。今回は短めにしようかな』
『あー……俺は長いの好きだけど』
『えっ……!』


 さらりと聞こえた「好き」という単語に、心が一瞬にして舞い上がった。

 決して、僕の事を好きだと言ったわけではなかったけれど、照れた七海さんから発せられた囁くような「好き」の声は、僕の脳に急速に染み渡った。


『あ、いやっ、和彦の好きなようにしていいよ! 別に、俺の好みに合わせる必要なんか……』
『長いの好きなんですか?』
『……わりと』
『じゃあ今回は切りません。七海さんの好みで居たいです。ちなみに……僕の顔はどうでしょうか? 七海さんの好みに入っていますか?』


 期待を込めて問うと、みるみるうちに七海さんの頬がピンクに染まった。

 僕は自覚がある。

 あんまり口に出すと嫌味にとられるから言わないだけで、これだけは卑下してこなかった唯一の自信。

 繋いだ手がじんわりと汗ばんできた。

 初々しいその反応が可愛くて、抱き締めたくてウズウズする衝動をグッと堪えた。


『ちょっ……何を……っ! ……ま、まぁ、……カッコいいとは、……思う、よ……』
『七海さんっっ!』
『わ、わ、分かったから! 手痛いって!』


 運転中の後藤さんは、聞かないフリで僕らの会話を一言一句聞き漏らしていないというのに、素直にそんな事を言う七海さんは、相変わらずの魔性を振り撒いて僕をのぼせ上がらせた。

 だって……大好きな人の好みでいたい、カッコいいと思われていたい、そんな風に思うのは「普通」でしょう?

 何気ない一言で僕の冷えた心を温める愛しい存在が、「カッコいい」って言ってくれたんだ。

 嫌がらず僕の隣には居てくれているけれど、七海さんはあまり自分から好意を伝える子ではないみたいだから、舞い上がった僕の心はふわふわと浮足立ち、今もまだそれは続いている。

 新たな髪色になって戻ってくる七海さんを楽しみに待っていると、つい目に入ってしまう大きな鏡に映った僕は、本当にだらしなくずっとニヤニヤしていた。



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