優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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さざ波 ─和彦─

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 その日ベッドに入っても、七海さんは「気が晴れた」の意味を教えてくれなかった。

 腕の中から少しずつ抜け出して、癖であるうつ伏せになりたがる体を後ろから抱き締めて瞳を閉じても、僕はなかなか寝付けない。

 ──何か嫌な事があったのかな……。

 疲れただけなら、あんな言い回しはしないよね。

 僕も最初は経理課に配属されて働いた事があるから分かる。  経理課での事務作業は、レジ打ちしていた七海さんなら難無くこなせてしまう仕事だ。

 だからきっと、あの台詞は別の何かが原因だと思う。


「でも……教えてくれないだろうなぁ……」


 聞き出そうとしてもうまくはぐらかされて、「なんでもない」と言い張ったところを見ると、話したくないか、もしくは話せないかのどちらかだ。

 七海さんが初日にも関わらず感じた不安事、心配事は仕事を紹介した僕にも責任がある。

 お父様との約束で仕事はしなければならないと頭を抱える前から、七海さんと居る時間を少しでも増やしたいと望んでいた我儘。

 出会って間もない僕達は、互いをもっと知る必要がある。

 短所リストまで作成できる七海さんは、初っ端で過ちを犯した僕のさらに悪い部分をたくさん知っていて、それでも尚、「ドキドキする」と言ってくれた。

 こんな幸せを味わってしまうと、後悔が薄れてしまってよくないと分かっている。

 七海さんの言う「暴走」をし始めても、ぎゅっと抱き締めてもらうだけで、次第に熱くなった体が落ち着きを取り戻す事は、他でもない七海さんから教えてもらった。

 僕自身でも知らない事を、七海さんは知っている。

 だから僕も、七海さんを知りたい。誰かが調べ上げた個人情報ではなく、七海さんという人間そのものを把握したい。

 奪ってしまった七海さんのすべてを、僕は慈しみたい。


「……こっそり様子見に行こうかな」


 大事な大事な七海さんの気を病ませた何かを、僕が自分で知ろうとしなければ意味がない。

 他人が嫌いだ、愛想笑いは見たくない、お世辞など聞きたくない、……もう、そんな事は言っていられない。

 近頃特に、七海さんは僕がこうなってしまった原因を知りたがっているから、根幹の克服に向けて動き始めるのも時間の問題だ。

 変装して身分を隠し、他人と大きな壁を作っている僕に「この家に生まれた以上は逃げも隠れもするな」と叱ってくれた。

 七海さんの言葉はとても真っ直ぐで、誰の言葉よりも胸に刺さる。


「……ん、……んーっ……」
「…………っ」


 薄暗い室内の壁をジッと見詰めて考え込んでいると、突然七海さんが僕の腕の中で伸びをした。

 寝入ってちょうど二時間。

 僕は腕を伸ばして、ベッドサイドの丸テーブルに置いていたペットボトルを掴み、少しだけ上体を起こして口に含む。

 熟睡から覚めた七海さんの体を支えて、口に含んでいた水を唇から唇へと送り込んだ。


「……っ、んっ……!」
「もう一度飲みますか?」
「……うん」


 こく、と喉を鳴らして頷いたので、僕はもう一度同じ事をした。

 飲み下したあと、もういらない、そんな仕草が見えてペットボトルの蓋を閉める。

 七海さんは深夜に必ず、ほんの少しの水分補給をする。

 一緒に寝る事になった初日、「水貰っていい?」と揺り起こされた時はどうしたのかと心配したけれど、これは七海さんのうつ伏せ寝と同じ、癖みたいなものらしい。

 そうして水分補給をするから、夜が明けるか明けないかくらいで一度僕の腕からすり抜けてトイレに行く。

 一緒に寝始めて発見した、七海さんの新しい情報の一つだ。


「……ありがと……。まだ起きてたのか?」
「まぁ……そうですね。考え事をしていて」


 水分補給をして一息ついた七海さんは、僕の方を向いて腕に頭を乗せてきた。

 ごく自然な流れでそうしてくれた事が嬉しくて、おまけに足を絡ませても怒られなかった。

 寝入るまで足の爪先を可愛くぴょこぴょこさせている七海さんは、瞳は瞑ったまま「何を考えてた?」と問い掛けてくる。


「七海さんの事をもっとよく知りたいなって」
「そんな事考えてたの」
「はい。僕、七海さんに相応しい男になりたいです。いや、なります」
「……何の話だよ」
「今の僕はすべてにおいて七海さんに相応しくない。僕には長所がありませんから、胸を張って「七海さんの恋人です」と言えないのが心苦しいんです」
「長所ならあるよ」
「え……?」


 七海さんの背中を撫でていた手が止まる。

 身動ぎに金髪の髪が揺れて、薄目をこちらに向けてきた。

 僕に長所はない。

 ずっとそうやって自分を卑下していたから、七海さんの純粋な瞳を見詰め返すのも躊躇われた。


「和彦は優しいよ。俺にだけ」
「あ……いや、僕は優しくなんてない……」
「それは俺が決める」
「…………」


 少しでも僕の気持ちが伝わればいい。

 その思いで七海さんに接してはいるけれど、それが「優しさ」なのか自分では分かっていない。

 僕は七海さんからの「優しさ」しか知らないんだ。

 おかしな僕を受け止めてくれる、七海さんの慈悲深い優しさしか──。


「いいんじゃないの。将来大会社の社長になろうかって人が八方美人って、嫌だよ」
「でも……僕はうまく出来る気がしません。仕事は出来ても、それ以外の面ではてんでダメです」
「そんなの知ってる。それが和彦のいいとこ」

「……短所じゃないですか……?」
「何とかと天才は紙一重って言うだろ。完璧な人間なんて居ないんじゃない? 間違いを犯して、反省して、色んなこと経験して、それを糧に前に進むんだよ」
「…………」
「ふぁぁ……眠い……」


 欠伸をした七海さんの瞳が瞑られ、足がおとなしくなった。

 今僕は、恋人であるはずの七海さんから、人として生きるための中核を教わった気がした。

 まるで、七海さんによる数十秒の講義。

 すべき経験をことごとくしてこなかった未熟な内面へ、考えなしに激情に囚われて過ちを犯した僕の後悔へ送られた、優しい鼓舞にも聞こえた。


「……おやすみなさい、七海さん」
「ん……おやすみー……」


 気に病む七海さんを救ってあげたいと思っていた僕は、またもや救われてしまった。

 静かな寝息が聞こえる。

 キラキラな髪を梳いていると、心がポカポカと温かくなった。



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