優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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さざ波 ─和彦─

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 険しい顔で僕と落ち合って、「お疲れ」と一言だけ言って後藤さんの車に乗り込んだ七海さんは、短時間とはいえ慣れないデスクワークに疲れてしまったみたいだ。

 抱っこはさせてくれなかったけど、僕は背凭れに体を預けながら柔らかな手のひらをにぎにぎしてその感触を堪能した。


「七海さん、お疲れ様でした。初出勤はどうでしたか? 口説かれたりはしませんでした?」
「そんなわけないだろ。あ、待って。俺ドラッグストア寄りたいんだけど、……いい?」
「ドラッグストア? ドラッグストアって何でしたっけ……ドラッグ……薬……! 七海さん、どこか体の具合でも……!?」
「違う違う! 髪の色落とせって言われたの! コンビニだと何も言われなかったから油断してたんだよ。俺のうっかりミス。初出勤なのに失敗した」


 あぁ……そういう事か。

 このふわふわな金髪は、世間一般では相応しくないという事なのかな。

 この様子だとキツく言われはしなかったみたいだけど、昨日のうちに僕が気付いてあげてれば注意されずに済んだのに。

 悪い事しちゃったな。

 僕にとってはこの明るくてふわっとした髪も含めて七海さんだから、髪の色が変わってしまうなんて変な感じだ。


「髪の色を変えるのに、何故ドラッグストアなんですか? 美容院に行きましょう」
「この時間だと営業してる店限られてくるだろ。ドラッグストアに行けばカラー剤あるから」
「…………? 明日出勤前に美容院行きましょう? 僕の行きつけがあります」
「えぇっ、和彦の行きつけなんて桁が一つ違うだろ! いいんだよ、俺はいつも自分でやってたんだし」
「えぇっ? 自分でこのキラキラを……!? 凄いですね、七海さん!」
「キラキラって……」


 繋いでる方とは反対の腕を伸ばして金髪に触れてみると、七海さんは照れたように窓の外を見た。

 凄いな……七海さんはこの髪を自分で染めてるって事?

 そんな事が出来るなんて知らなかった。

 さすが、僕の好きな人は何でもそつなくこなすなぁ……素敵だ。


「七海様。明日、出勤前に美容院にお送りしますので、ご自分で施す必要はありません」
「うんうん、そうですよ、七海さん。ついでに僕も髪切ります」
「えー……だってめちゃくちゃ高いだろ? その美容院って、カットだけでも凡人は足が竦んで入れないような店なんだろ?」


 値段を気にして渋っていると分かって、謙虚な七海さんがいじらしくてたまらず、繋いでいた手をぎゅっと握った。

 それは全く気にしなくて結構です、そう言ってあげようとしたところで、信号待ちで振り返ってきた後藤さんがタブレットを操作し始める。


「七海様、世に出回っているカラーリング剤の危険性をご存知ですか」
「えぇ? いやまぁ……髪にはよくないだろうけど……」
「和彦様、これを」


 御年五十を迎える後藤さんが、ササッと画面を操作して僕にタブレットを差し出してきた。

 その画面を見て一番に目に飛び込んできたのは、赤文字の『市販のカラーリング剤がもたらす体への影響』などと見出しからして恐ろしげな文体だった。

 少しばかり偏った書き方ではあったけれど、市販のそれがいかに危険性を孕んでいるかが事細かに記された、美容師さんの意見記事に慄いて目を見開く。


「……こ、これはマズイですよ! 七海さん、今からでも遅くありません。天然素材のものを使用しましょう! ね、僕の言う通りに……! 七海さんの身に何かあったら、僕は生きていけません!」
「髪染めるだけで大袈裟だな!」
「そんな事ありません! 七海さんは僕の隣で健やかに人生を全うし、最後に僕の魂を受け取る責務があるんですよ!」
「分かったから落ち着けよっ。なんで髪染めるだけでこんな……っ」


 アレルギー反応を起こして倒れでもしたら、どうするんですか。

 肩を揺らして笑う七海さんにそう言っても、「大袈裟」としか返ってこなくてヤキモキした。

 それでも、講義と仕事で離れ離れになって寂しかった僕の胸中が、七海さんの笑顔と繋がれた手のひらで温まっていく。

 物心付いた頃から七海さんと出会っていたら、時折心に吹き荒ぶ冷風なんて感じなかったかもしれないな。

 どうして今だったんだろう。

 七海さんがキラキラな髪色に自らしてしまう前に出会わなかった事が、心の底から悔しい。

 僕の剣幕に笑いが止まらないらしい七海さんは、呑気に目尻の涙を拭っている。


「笑い事じゃないです! 本当に、もっと早く出会いたかったです! 七海さんが危険な自傷行為をする前に……!」
「それどれだけ危ない事書いてあるんだよ。ちょっと見せて」
「はい、ぜひご覧になってください。僕の言う事を聞いてくれないと、先立つ主に魂が泣きますよ」


 七海さんは絶えずクスクス笑って僕の手からタブレットを奪い、笑顔を崩さずなかなかのハイスピードで記事を読み進めていく。

 画面を操作する横顔と指先が美しくて可愛くて、……見惚れた。


「だから大袈裟だっつーの。でもなんかちょっと、……気が晴れたな……」


 視線は画面に落ちたまま、何気なく呟いた七海さんの台詞に引っ掛かる。

 気が晴れたって、……そう言った?

 もしかして七海さん……初出勤、初デスクワークで疲れただけじゃ、なかった……?



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