優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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さざ波

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 他人にはあんなに冷たい瞳を向けるのに、エレベーターの中で二人きりなった途端、和彦は俺を隅に追いやってほんの十秒だけの密会を超至近距離でやってのけた。 


「いいですか、僕は五階に居ます。何かあったらすぐに来てください」
「大丈夫だって。俺をいくつだと思ってんだ」
「僕より二つ歳上の小悪魔ちゃん」
「こっ……!?」
「十九時まで、頑張りましょうね」


 三階でエレベーターは止まり、経理課に配属された俺はそこで和彦と分かれる事になった。

 行き交う大人達はみんなサマースーツや会社規定の制服を着ていて、どことなく表情も引き締まっている。

 終業時間は十七時だけど、定時で上がる人は極わずからしいと聞けば、大会社のオフィスに怯んでいる暇はない。

 経理課と書かれた部署プレートを発見して、開かれた扉をノックし「失礼します」と一礼してから入室した。

 コンビニで同世代に挨拶するようなのじゃ駄目だろうから、俺は全員(二十人くらい?)を見渡して挨拶し、それから深々と再度礼をした。

 単なるバイトだろ、と嘲笑されないように、仕事に対する意欲もやる気もある事が伝わればいい。

 注目を浴びてドキドキしながら顔を上げると、社員証に「課長」と記された男の人から笑顔で肩を叩かれて、ホッと胸を撫で下ろす。


「待ってたよ! ひとまず今日は初日だから、そこのデスクで松田さんから仕事内容聞いてメモってね」
「はい。ありがとうございます」
「芝浦君はノート持参で良い心掛けだ」


 最近の若者はメモを取る習慣がないからな…とぼやいた課長から、松田さんという綺麗な女性を紹介されてデスクに着いた。


「よろしくね。七海くん?って呼んでいい?」
「あ、はい。何なりと」
「早速なんだけど……仕事の前に一つ。その髪の色って少し落として来れたり出来るかなぁ?」
「……っ! すみません、明日には必ず!」


 いけない! 髪の事すっかり忘れてた!

 やっぱりエッチなんてしてる場合じゃなかったよ……大会社での初出勤なのに、金髪で出社する奴が居るかってんだ。

 髪を触ってあたふたする俺に、松田さんは「大丈夫よ」と笑ってくれた。


「いいのいいの。でも社会に出ると第一印象って大事だからね。それに、少し暗くした方が七海くんは素敵だと思う」
「いえ、そんな……」
「さっ!  じゃあ十九時までみっちり働いてもらおうかな! エクセルは使える?」
「はい。手間取らせて申し訳ないです。頑張ります」


 俺の教育係になってしまったばかりに、松田さんの仕事を何倍も増やしてしまう。

 早く覚えなきゃ。

 その一心ですぐさまノートを取り出してペンを握り、松田さんから仕事内容を教えてもらう。和彦が言ってた通り、データ入力が俺の主な仕事みたいだ。

 翌日までデータ処理を持ち越さず、朝からの社員さん達の業務に支障をきたさないための、短時間バイト。

 メモを取ったのは一ページ分で、あとはパソコンに向かって黙々と数字を打ち込んでいった。

 バイトだからって手は抜かない。やるからには何でも頑張る。

 まぁ…コンビニの深夜バイトは時給も良くて、品出しで体も動かせておいしかったんだけど。

 でも、断ってたのに毎回送迎してもらうのも気が引けてたし、ストーカー男が店内を覗く様をリアルタイムで目撃してた俺は、深夜に働くって事がトラウマになりかけてたから……和彦にはああ言ってしまったけど、先手を打ってもらえて実はちょっとだけ嬉しかった。

 ……俺を思っての強引さで、幕引きもちゃんとしてくれたなら……むしろありがたいって思う。

 あ。  そういえば、あれからストーカー男はマジで一家揃って県外追放されちゃったのかな……。

 なまじ和彦はそれを簡単にしてしまえるから、怖くて聞けない。


「七海くん、お茶とコーヒーどっちがいい?」


 松田さんに「ねぇねぇ」と肩を叩かれて振り向く。


「入力早いね、即戦力だわ。ブレイクタイムしよ」
「給湯室ですよね? 自分行きますよ?」
「これは私が好きでやってる事だからいいの。どっち?」
「じゃあ……コーヒーで。すみません、ありがとうございます」


 気付けば渡された伝票の半分以上の入力が終わっていた。

 ブレイクタイムって、俺まだ二時間しか働いてないんだけど……いいのかな。

 松田さんは定時を超えての残業中って事になるから、動いた方が気晴らしになるのかもしれない。

 受け取っていた伝票の残り枚数を数えて、今まで打ち込んだ数字の見直しチェックをしていた俺は、ふと手を止める。


「あ……砂糖とミルク要らないって言ってこよっ」


 何故だか俺は甘いコーヒーが好きだと思われがちだけど、好んで飲むのはブラックだ。

 初対面だとまさにその先入観を持たれていそうで、松田さんの手を煩わせないために早歩きで「給湯室」のプレートを探した。


 ──あ、あったあった。


 経理課のオフィスの扉は開放的だったのに、給湯室の扉は固く閉ざされている。

 中から人の話し声がするから、松田さんが同僚と会話でもしながらコーヒーを淹れてくれてるんだろうと、その時の俺は思った。

 会話に水を差すのも悪くて、ノックをしようか迷っていた俺の拳は、中から聞こえてきた松田さんの声に驚いて宙に浮いたまま固まった。


「…………っ!」


 松田さんの「やめてください」と拒否する声と、給湯室内で陶器が床に落ちて割れた音がした。

 微かに服の擦れる音も聞こえて、何やら揉み合っていそうな雰囲気だ。

 やめてください、やめてください。

 松田さんはそれしか言わない。

 中に居るのは松田さんと、もう一人。漏れ聞こえる声の低さからして、男だ。仲の良い同僚なんかじゃない。

 何か良からぬ事が起きているのは確実で、俺がどうにか出来るとは思えないけどとにかく突撃してやれとノブに手を掛けた。

 と同時に向こう側からノブが回って、出て来た偉そうな男と数秒目が合う。


「…………」


 『誰にも言うなよ』

 そんな視線だった。

 一体何が起きていたのか。中に入って松田さんに確かめようにも、去って行った男から俺は視線で口止めされた。

 そしてそれが万が一、俺の考えが正解だったなら……松田さんは容易く俺に真実は話さない。


「はい、七海くん。コーヒー」
「あ……ありがとうございます」
「どういたしまして。さーて、あと一時間、ラストスパート頑張るかぁ」


 デスクに戻ってパソコンの画面を見詰めていると、松田さんは何食わぬ顔で俺にコーヒーを手渡してくれた。

 言いそびれたから、ミルクと砂糖がちゃんと入ってる。

 伸びをした松田さんの横顔を盗み見て、甘いコーヒーをちびちびと啜った。



 まさか初出勤でこんな事に巻き込まれるとは、俺は夢にも思わなかった。






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