優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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バッティング ─和彦─

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 鉢合わせた現場が最悪な状況下で、九条さんは占部さんと同じく、最初から何の遠慮もしないで僕に突っ掛かってきていたから、それで無意識のうちに僕の心のシャッターが開いていたのかもしれない。

 僕の素性を知っても「お坊っちゃん」なんて軽々しく呼んでくるくらいだ。

 相当肝が据わっている。

 ……彼の事は気に食わないけれど、本質は決して嫌いじゃない。

 隔たりのない本音を、彼は僕に言っていると分かるから。

 僕の身分を知っても、態度も口調も変えないのはむしろ好感すら覚える。

 七海さんへの好意の引き際も見事だと思った。

 果たして僕は、九条さんのように好意をあっさりと諦められるかと聞かれたら、そんな自信は少しもない。

 好きだという気持ちを引き摺ったまま、恋敵に「うまくいった?」なんて、僕にはとても聞けない。


「……そんなに笑って疲れませんか」
「あー? 疲れるよ、当たり前だろ。涙出たわ。腹筋痛てぇし」
「僕おかしな事言いました?」
「いや、二人ともウケる。七海がなんであんたを選んだのか分かった気がする。やっぱ七海もちょっと普通じゃねぇよな」
「つい先程も言いましたが、七海さんの悪口は言わないでください。選ぶも何も、九条さんは恋愛対象外だったじゃないですか」
「あ、ムカつく。七海手に入れたからって調子にのるな」
「……のらせてくださいよ。一昨日から僕は絶好調に浮かれています」
「まぁいいや、腹立つけど。いい事教えてやろうか。もっと浮かれんぞ」
「……なんですか?」


 九条さんが、ニヤニヤしている。

 黒髪と同じ真っ黒な瞳で僕を見て、コーヒーを一口啜った。


「昨日の夜、七海からメールきたんだよ」
「……何て?」


 ドクン──と、僕の心が揺れる。

 七海さん、僕の知らないところで九条さんに連絡を取っていたの? ……いつ?

 コーヒーの中身が僅かに波打った。僕の手が一瞬だけ震えたからだ。

 週末は常に一緒に居て、そんな隙なんて与えなかったはずなのに。

 よくないと分かっていながら、七海さんにだけ湧き上がる独占欲がじわじわと心を侵食する。

 九条さんがニヤニヤしているのも癪に障って、落ち着くために僕もコーヒーを一口啜った。


「「九条君と二人で会うのダメだって言われたから、もう飲みに行けない。俺、和彦の言う事聞かないといけないみたいなんだ。ごめんね」……だってさ」
「…………っ!」
「浮かれただろ」


 ────!

 七海さん、僕の目を盗んでそれをわざわざ九条さんに連絡したの?

 そんな報告、大学に来てからでも、次に九条さんから誘いがあった時でも、どちらにせよ後々でいい事じゃない?

 僕に言われてすぐに実行に移しただなんて、いじらしくてたまらないんだけど。


「……はい」


 ……これは……浮かれるよ……。

 気付いたばかりでまだ「好き」とは言ってくれない七海さんが、多分無意識だろうけれど僕に操立てしてくれた。

 なんだか今は……それだけで充分だった。

 純粋な七海さんらしい。

 恐らく、また九条さんに誘われたらどうしよう、と思ったんだ。

 それなら僕にバレる前に、九条さんに予め顛末を話しておかなきゃって。

 嬉しくて浮かれているからか、七海さんの思考が手に取るように分かる。


「最初はさぁ、何さっそく縛ってやがんの、と思ったんだけど」
「縛るでしょう、それは。七海さんは魔性の男なんですもん」
「まぁ最後まで聞けよ。七海があんたの言う事聞かないといけない、と思って真面目ちゃんらしく自分の意志で俺に連絡してきたんなら、あんたの縛り、無事に成功してるぞ」
「……そうなりますね」
「不満があんなら、わざわざ俺にメールなんかしてこねぇじゃん。そんな事お前には関係ねぇって、今まで通り飲みにも勝手に行こうとすんだろ」
「えぇ、……そうですね」
「だからうまくいったのかって言ったんだ。純粋な七海はあんたが少し調教しただけで変わっていくんだからな、その事は忘れんなよ」
「……肝に銘じておきます」


 一切の逡巡なく言い放った九条さんは、コーヒーを飲み干してカップをクシャっと潰した。


 ──どうして九条さんは、恋敵にここまで言えるんだろう。


 忠告の中に、「俺が好きだった七海を大事にしてくれよ」という思いが込められている気がしてならない。

 僕が良いように考えちゃってるのかな。

 今の僕は特に、舞い上がってポジティブ思考になっているから……。


「あ、七海さんだ」


 この、人がごった返したカフェ内の立ち飲みスペースでも、僕らの周囲一メートルには誰も近寄らない。

 遠巻きに僕らを窺う視線を感じて苦笑していると、七海さんからメッセージが届いた。

 ポケットの中の振動に、体だけではなく心も若干弾む。


「終わったって?」
「……はい、そうみたいです。迎えに行きます」
「過保護だな」
「恋人ならば当然です。僕が七海さんの傍に居れば、七海さんに関する噂が消えるのも早いはずです」
「ふーん。あ、……? 七海もうあそこに居るじゃん」
「え……っ?」


 九条さんが眉間に皺を寄せて顎をしゃくった先に、ふわっとした明るい髪が確認出来て、それは紛れもなくたった今僕に講義終了のメッセージを送ってくれた七海さんだった。


 ──本当だ。何してるんだろう。


 七海さんは、カフェから構内が覗き見えるその先で、何かから隠れるように柱の影にジッとして身を潜めている。

 僕らの位置からその様子がバッチリ見えていて、二人して首を傾げた。


「七海、何してんだ?」
「さぁ……」
「行ってみるか」
「…………」


 僕が送った返事も見ないで、七海さんってばそんなに熱心に何を見ているの。

 どこかを見詰めて独りかくれんぼをしている七海さんの元へ、九条さんと僕は歩を進めた。



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