優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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バッティング ─和彦─

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 七海さんの「初めて」の記憶は、僕の懺悔と共にある。

 今はこんなに幸せでも、あの時の罪は忘れてはならない。

 どんなに七海さんが「もういいよ」と言ってくれても、忘れない。

 真っ白な上に罫線だけが引かれたルーズリーフに、僕の改造計画がビッシリと書き込まれた七海さんの愛をきちんと受け止めて、少しずつ計画を実行に移す事を約束した。

 まず、他人から話し掛けられても気が乗らないならまだ会話はしなくていい、でも変装はやめろ、と言われた。

 僕がこの家に生まれた以上、それから逃れる事など出来ないんだから、逃げも隠れもするなと怒られた。


『素性なんかバレてもいいじゃん むしろ俺は金持ちだぞ、並大抵じゃないんだぞって顔して堂々と歩けばいいよ』


 ……そんな極端な提案ある? ……面白いよね。

 僕は笑いながら、そこまでは出来ないけれど変装はやめますって返事をした。

 だから今日は、マスクも眼鏡もしていない。

 絶対に四方から視線が飛んでくると予測していたけれど、案の定で居心地は悪い。

 でも七海さんが付いてるから、平気。

 太陽がこんなにも眩しく、街並がこんなにも賑やかで明るいなんて、僕は二十年間知らずに生きていた。





 セックスした日から、七海さんの僕への態度が大幅に変わってドキドキがずっと治らないんだ。

 「恋」に気付いた七海さんは、どこにそんな可愛気を隠していたのと驚いてしまうくらい、気持ちの上で僕を求めてくれる。

 相変わらず、「セックス」って言葉には弱いみたいだから、昨日もあんまり言わないようにはしていた。

 泥のように眠った僕の腕の中に、七海さんが居た。

 昨日は生まれて初めて、これ以上ないほどの幸せを実感した最高の休日だった。


「七海さんが戻るまでカフェで待ってよう……」


 こういう時に、歳の差を感じて嫌だ。

 講義が被らないから、どうしたって空いた時間が出てくる。

 今は、少しも離れていたくないのに……。


「よぉ、お坊っちゃん」
「…………」


 構内を歩いていた僕の背後から、聞き覚えのある嫌いな声がした。

 振り返ると、いけ好かない顔で九条さんが僕に近付いてきていた。


「……どうも」
「七海とうまくいった?」
「…………えぇ」
「あ、そ。絶対俺の方がまともだと思うんだけどなー。七海も趣味が悪いな」
「七海さんの悪口言わないでください」
「悪口じゃねぇよ。七海本人にも似たような事言ったし」


 そんな事を七海さんに言わないでよ。

 ただでさえ僕のあなたへの印象は底無しに悪いんだから。

 七海さんに好意を持っていた事は百歩譲っていいとして、告白直後にキスを迫るなんて人としてどうなの。

 ──という事を言っちゃうと、「お前の方が人道に反してるだろ」って言葉が返ってくると分かるから、僕は口を噤むしかない。

 嫌というほど自覚している事柄を他人に改めて非難されると、単純に気持ちが沈む。

 九条さんは、構内のカフェへ向かう僕の隣に付いて歩いた。

 腹が立つ事に彼も僕と同様注目を浴びていて、僕ら二人が揃って歩くと人波が不自然に端に避けていく。


「あのストーカー、とりあえず交番連れて行ってはみたんだけど」
「あぁ、はい。無理でしたか」
「だな。七海の自覚が無かったじゃん、それが一番難しい事由。 いつからどんな事されてたかっつーのが分かんねぇと厳しいんだよ。被害内容もハッキリしねぇし」


 コンビニの前に怪しい男が居た、って事で交番に突き出したはいいものの、法律を学んでいるらしい九条さんは、今すぐどうこうする事は出来ないと顔を歪めた。

 危ない男が周囲をうろついている事が分かっていて、しかも七海さんが僕を受け入れてくれた今、平穏な生活を取り戻すべく恋人である僕は多少強引な手を使っても許されるはずだ。


「七海さんの家は引き払って僕の家に住んでもらいますし、バイトもすぐに辞めてもらいます。ストーカー男への報復も着々と進行中です。……これで少しは接触の機会が減るでしょう」
「あんま派手に報復すんなよ。てかバイト辞めさせたらマズイんじゃね? 七海は仕送りじゃねぇんだぞ」
「会社の仕事を手伝ってもらいます」
「なるほど。それだと四六時中一緒に居られるしな?」
「それもありますが、七海さんは就活しているんでしょう? 応募選考に必要なもののリストを取り寄せましたから、七海さんに書いてもらいます。就職前にアルバイトとして働いていれば仕事に馴染むのも早いですしね。良い事しかないです」
「……ガッツリなコネ入社だと七海怒るだろ。あぁ見えて真面目ちゃんだし」


 ……そうなんだよね。

 本当は、大学を卒業したら僕のお嫁さんになってお家に居てくださいって言いたいところだけど、七海さんはそれには絶対に頷かない。

 お父様は教師というしっかりとした職種だから仕送りも不可能では無かったはずなのに、七海さんは父子家庭で育ててくれた恩義を自活で返そうとしている。

 なんて律儀で、健気で、誠実なんだろう。

 この件に関してだけじゃなく、七海さんはきっと自分が違うと思ったら僕の言う事は聞かないと思う。

 そんな一本気のあるところも大好きだ。


「ふふっ……可愛いですよね。見た目はヤンチャなのに、中身はまるで正反対。そうだ、恋愛漫画や小説が好きなんですって。知っていましたか?」
「へぇ? 知らなかった。意外だな」
「攻めとか受けとか言ってたかな? 何の事を言っているのか分からないんですよね」
「…………それは分かる」
「え? 何なんですか? 僕の事をヘタレって呼ぶんですよ、七海さん。でも自分みたいなしっかり者の受けとくっつくのが相場なんですって。訳が分からない」
「ぶっっ……!」


 首を傾げた僕の前で、九条さんは吹き出して笑い転げた。

 失礼な、と思いながらそのニヤけた顔を一睨みするも、注文したコーヒーを並んで飲む九条さんとも普通に話せている事に今さら気が付く。

 僕はそれにも、首を傾げた。




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