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本心
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しおりを挟む見詰める先から和彦が消えて、代わりにこの図書館の女性職員が俺の顔を見下ろしてくる。
「お怪我はないですか!?」
「あ、いえ、大丈夫です。すみません、大きな音立てて。脚立を倒してしまって……」
「構いませんよ。これだけ大きな脚立だと、よくある事ですから。お怪我がなくて何よりです」
「はい……。……じゃ、俺失礼します」
「あれ、お探しの本は見付かりませんでしたか?」
「…………はい、……見付けられませんでした。今日はもう帰らなきゃなんで、また明日来ます」
「そうですか」
人の良さそうな年輩の職員は、慣れた手付きで正しい位置に脚立を置いて俺に会釈し一階へと降りて行った。
……なんであんな嘘吐いたんだろ。
本、見付けてたじゃん。取れなかっただけで。
ふとお目当ての本を見上げてみると、俺が指先でちょんと触れたせいでやや飛び出してしまっていた。
「まぁ……明日でもいいや。急いでないしな」
何かの弾みですぐにポロッと落ちてくるほどは飛び出てないし、ここでまた無理に取ろうと脚立を使ったら同じ事を繰り返してしまいそうな気がした。
それに、あっちには和彦が居る。
向こう側にも階下へ下りるための螺旋階段があるけど、利用者の少ない夕方前のこの時間は閉鎖されていた。
て事は、この付近をもう一度和彦が通るかもしれないって事で、……うん。無理だよ。
別に話なんてないけど、最近の和彦は前のグイグイきてた和彦とキャラが違い過ぎてて、俺は正直どうしたらいいか分からなくなる。
──いや、何考えてんだ、俺。それだとどうにか話がしたいって思ってるみたいじゃん。
このところ毎日、俺はこんな突っ込みを自分に入れていた。
その理由というのも、一ヶ月前の九条君との会話を思い出す度に、心がさらに重たくなるからで……。
溜め息を吐いて図書館を出ると、生ぬるい空気が全身を包んで、全部の毛穴から汗が吹き出してくるのが分かった。
バイト前の時間をどう過ごそうかと考えながら、額に滲む汗をタオルで拭う。
広い大学の敷地内を散歩がてら歩きたくても、こんなに暑いとすぐに息が上がってダメだ。
とにかくどこかのコーヒーショップにでも避難しないと。
見た目を裏切らない俺は、体力にはまったく自信がない。
ヘロヘロになりながら目的の場所に向かって歩き出した。
暑い暑いと思ってるともっと暑くなるから、何か別の事を考えなきゃ…となると、いつも浮かんでくるのは何度も頭の中で再生されているあの日の会話だった──。
● ● ●
俺の部屋を出て行った和彦の背中が、脳裏に焼き付いて離れない。
膝を抱えてベッドの上で「初めてだった」と言った途端、和彦の顔色が変わったのを間近で見た俺は、なんであんな事言っちゃったんだろって後悔した。
何も聞かれてないのに、自身の恥ずかしいくらいの乙女思考をすべて曝け出して、……一体何がしたかったんだ。
俺が「初めて」をどれだけ大事にしてきたか、その前の過程をどれだけ夢見てきたか、それらをあっさりと奪い去った和彦に、俺のこの虚無感を分かってもらいたかった……?
話してしまったところで「そうだったんですか、それはごめんなさい」って、例の変な奴のノリで軽く返ってくるもんだと思った。
でも、違った。
あの様子じゃ多分、俺の言わんとする事以上のものを受け止めて、……帰って行った。
あんなに「七海さん七海さん」って言いながら、俺の話を聞かずに強引の限りを尽してた奴が、その優しげでモデルさんみたいな顔面から一切の表情を失くし、細長い工具を持ち直して何も言わずに肩を落としていた。
だからって、出て行こうが何しようが、どうでもいい。
帰ってほしい、もう顔も見たくない、やっと離れられる、そう思ってたんだからむしろせいせいした。
『鬱陶しい奴も居なくなった事だし、七海、行こ』
『……ねぇ九条君』
『ん?』
ガチストーカーが居ると分かって、九条君は心配気に家に泊まれと言ってくれてるけど、俺は気乗りしなかった。
キスされそうになって怖じ気付いてるわけじゃない。
告白してきたのが他ならぬ九条君だったから、俺は躊躇していた。
『男同士でも強姦って成立するの』
『する。状況にもよるが刑法百七十七条にあたる。て事は何、あいつとって……無理やりだったのか?』
『……じゃあ、俺が感じちゃってた場合はどうなるの。それでも成立するのかな』
『…………は?』
弁護士志望で法律について学んでいる九条君に、俺は自分でも思いがけない事を口にしていた。
それを知って行動を起こしたかったわけではなく、ただ俺は、許しがたい行為を強いられたはずの和彦の背中が、忘れられなかっただけ。
噂に振り回されやがって。
俺の気持ちも体も、セックスを経験する前には戻れない。
何なら、この悪しき初体験は一生俺の心に残ってしまう。
……それだけの事をされたのに、俺はどうして九条君からのキスを拒んだ時みたいに抵抗しなかったんだろって、今考えると俺の行動と言動は、完全に背反していた。
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