優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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高鳴り ─和彦─

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 思いがけず一緒に講義を受けた日から、何故か毎日七海さんを見掛けている。

 ずっと会わない日々を過ごしていたから、これは一体どういう事なのって運命を疑ってしまうほど、ふとした時に僕の視界の中に七海さんが現れる。

 それは本当に何気なく。

 ほんの少し、見掛ける程度。

 けれど、まったく見る事も叶わなかったこれまでを考えると、妙だとしか思えなかった。

 何かに引き寄せられているのかと、僕は単純にそう考えた。

 これだけ毎日見掛けていると、何をどうしたって無理だ。

 忘れたくても忘れられない。

 ……すぐにそんな甘い考えは捨てなければならないんだけど。

 夏も本番となり、薄着になった七海さんが汗を拭う姿は誰もが見惚れてしまうほど色気があった。

 けれど、山本さんやその他僕の知らない友人らに囲まれている七海さんが浮かべるのは、やっぱり……愛想笑い。

 僕が「初めて」を奪った事で、七海さんの本来の笑顔さえも奪ってしまったのかもしれないと思うと、やり切れなかった。

 きっと、可愛いはず。

 目を細め、口角を上げて、くしゃっと笑った本物の笑顔を、見てみたかった。

 ──本当に僕は、罪深い。

 僕は、七海さんの大切なあれもこれも、すべて奪い取ってしまったんだ。


「お、和彦じゃん! 今日はもう帰んの?」
「あ……山本さん。こんにちは。図書館に行こうと思って」


 約十日間、毎日見掛けていた七海さんとは今日は会えずじまいで構内を出たところに、背後から肩を叩かれた。

 七海さんをしょっちゅう合コンに誘っている、占部さんとも仲が良い山本さんだ。


「あぁ、別館のバカデカい図書館な。俺も次の講義終わったら行くかも。いい加減、卒論テーマ考えないとなんだよなぁ」
「卒論か……。テーマ決まりそうですか?」
「いや、何も考えてない。とにかくここの図書館行け、行動起こせってゼミ長に言われてさ……同い年に言われると腹立つわ」


 そっか……四年生になるとみんな、授業というより卒論に追われるんだ。

 七海さんはどうするのかな。


「卒論提出はいつですか?」
「提出は年明けすぐだったはず。七海はもう論題提出は済んだみたいだから、俺はそれ間に合わなかったら卒論パスだ」
「え? パス?」
「うちの大学の文学部は卒論必修ではないんだよ。でも仮にも文学部だし? 暗黙の了解っぽいのあって」
「……なるほど」
「あっやば! もう次始まんじゃん! また後でな!」


 腕時計を見た一見チャラそうな山本さんは、慌てた様子で走って行った。

 ……七海さんがこの大学に居るのも、あと一年もないのか……。


「大事な最後の大学生活だったんだよね。……ごめんなさい、七海さん……」


 僕はもう、何度七海さんに謝罪の言葉を口にしたか分からない。

 本人には伝えられない、無意味な謝罪を幾度繰り返しても、罪悪感が消える事はない。

 僕と接触しても、何もなかった体で振る舞う七海さんの強さは、無理をさせているのに悲壮感さえ感じた。

 ぐるぐると考え込むと、視界が狭まってくる。

 最近の僕は、今までどんな顔で、どんな思いで、どんな事を考えながら生きてきたのか、思い出せなくなっていた。

 七海さんと出会って心奪われ、それと同時に味わった罪の意識に苛まれていると、毎日が色味を帯びたりモノクロになったり、……忙しい。




 図書館の入り口でデータベースを利用し、必要な書物を取りに僕は螺旋階段を上がった。

 『競争優位の選択』。この書物は二階の左奥、経済・経営学コーナーにあるらしい。

 国立図書館のように広大な面積を誇る、数え切れないほどの書物が並ぶここの本棚は、高めに作られた天井にまで簡単に届いてしまいそうだ。

 至るところに設置されている、この脚立に上って僕が目一杯手を伸ばしたとしても、一番上の書物には恐らく届かない。


「うーんっ、むーっ、……っ」


 二階に上がって目的の場所へ歩もうとした僕の耳に、どこからか呻き声が飛び込んできた。

 聞き馴染みのあるこの声の主は、もしかして……。

 ──七海、さん…?

 今日見掛けられなくて寂しいからって、幻聴が聞こえたんだろうか。

 いや……待って、……幻覚まで見えてきた。

 声のした方へ行ってみると、七海さんが脚立に上り険しい顔で頭上に腕を伸ばしている。

 どうやら高い位置にある目的の書物を、脚立を使って取ろうと奮闘しているようだった。

 あれは幻覚じゃない……! 本物の七海さんだ!!

 だ、だめ、そんなに体を傾けて腕を伸ばしていたら落ちてしまうよっ。


「あ、……っ」


 今にも脚立のバランスが崩れてしまいそうで、僕は迷わず駆け寄った。

 転んでしまう前に、他人のフリをして「危ないですよ」と声を掛ける、それだけのつもりだった。


「うわわわっっ……!」
「え、──えぇっ……!?」


 僕が辿り着いたその瞬間、七海さんが焦りを持ってジタバタしながら、咄嗟に広げた僕の両腕の中へと飛び込んできた。

 大きく傾いた脚立がこちらへ倒れてきそうだったから、足で向こう側へ蹴り上げる。

 ぐらりと方向を変えたそれは、ガシャーンッと大きな音を立てて床に倒れた。


「……大丈夫ですか? ケガはないですか?」
「えっ、……あっ! か、和彦……っ」


 僕は、飛び込んできた七海さんを抱き止めて脚立を蹴り上げた拍子に、勢いに負けて床で背中を打った。

 でも痛みなんて感じない。

 僕に馬乗りになった七海さんが、目の前であたふたしている。

 その様子をこんなに間近に見る事が出来て、天にも登るような気持ちだった。

 ……こんな、ドラマみたいな遭遇が本当にあるんだ……。

 慌てふためく七海さんを見詰めながら、心の中で僕は何度目か分からない懇願をした。


 ──ごめんなさい、七海さん。
 僕はこの期に及んでもまだ、七海さんの事が好きで好きでたまらない。
 罪深い僕は絶対に伝えはしないけれど、好きでいる事だけは……許してください……。





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