優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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高鳴り ─和彦─

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 ● ● ●


 暑さが本格的になると、学生達の考える事は皆同じだ。

 出来る事なら冷房の効いた構内で涼んでいたい、もっと言えば、より涼やかな講義室に避難したい。そんなところ。

 春先や秋口にはあまり見られない、講義室が満席になった光景を僕は一番後ろの隅の席から眺めていた。

 冷房で体が冷えてくるとマスクを装着し、他人と壁を作る。

 思わぬ相席で七海さんと会ってから三日、僕は毎日朝から昼過ぎまで確実に大学構内に居るのに、やっぱり出くわさない。

 もう会わない方がいい。姿さえ見ちゃいけない。

 そう思っていた僕に、この日またしても運命が悪戯した。


「ごめん、座らせて」


 講義開始までぼんやりと前方を眺めていると、僕の後ろ側の扉から入ってきたらしい生徒にグイと肩を押された。

 無理やり僕の隣に座るスペースを確保してきたのは、七海さんその人だった。


「えっ……!? な、七海さ……っ」
「シッ……! 和彦、それ変装してるんだろ。大声出さない方がいいよ」
「…………!」


 僕が目を白黒させているというのに、何食わぬ顔でリュックからノートや筆記用具を取り出している。

 な、な、七海さんが……また僕の隣に居る……!

 この時間は全学必修科目である事は確かだけど、四年生の七海さんが受けるべき講義ではないはずだ。

 それなのに、なんでここに……っ?

 しかも僕が変装してるって何で知ってるの……?


「いっつもバイトの時間と被るからこの必修逃してて。今日こんなに多いって知ってたら次に持ち越したのにな」
「……そ、そうなんですか」
「ちょっと狭いけど……許して」
「あ、いえ、それは大丈夫ですけど……」


 本来は一人分の席を二人で使っているんだから、どうしても体が密着する。

 ……いいのかな……七海さん。必修は落とせないからって我慢してるんじゃないのかな……。


「七海さん、僕退室しますからどうぞ……」
「なんで。いいよ、別に。和彦が狭くないんなら」
「でも……」
「……そんなに嫌なら俺が別のとこ行く」
「違う、そうは言ってないでしょう……」
「じゃあ何なんだよ。……いいって言ってんじゃん」
「……わ、分かりました。七海さんが気にしないのであれば……」
「扉開けたら満席だった、でもすぐそこに知ってる人居た、だから声掛けた、それだけ」
「…………はい……」


 七海さんは前を向いたまま、きっぱりとそう言い切った。

 それは分かるんだけど……こんなに僕と密着するの嫌じゃないのかなって、気になるのはそこだけだ。

 教授が熱弁を振るっている最中も、僕は右隣が気になって気になって集中出来なかった。

 ノートにペンを走らせる七海さんは、僕の事なんて気にも留めてないんだろうけれど……許せない相手が隣に居るというのに、やけに冷静なのが不思議だった。

 ……いや、冷静にならざるを得ない状況だから、仕方なく平静を保ってるんだ。

 必修を落としたら卒業出来ない。

 七海さんは就活組で卒業出来ないと困るから、たまたま扉近くの席に陣取ってた僕に声を掛けた……七海さんがそう言ってたじゃない。

 何も期待してはダメ。今ならあの時の事を謝罪出来るかもしれないなんて、思ってはダメ。

 どんな天変地異が起ころうとも、許してもらえる日なんか来ない。


「あ、赤ペン忘れた」


 講義中盤、筆記具の入った小さなポーチを漁る七海さんが呟いた。

 聞き逃さなかった僕は、持っていた赤ペンを七海さんのノートの上に置く。


「はい、使ってください」
「……ありがと」
「ここに置いておきますから、ご自由にどうぞ」
「……うん」


 ……嬉しい。

 七海さんと会話出来ている事が、とてつもなく嬉しい。

 早めに来てこの席に陣取って良かった。

 あれから日にちは幾ばくも経ち、だからといって罪の意識は少しも消えないけれど……七海さんを想う気持ちは会う度に増してゆく。

 気が咎めるからあまり思い出さなかったのに、こうして七海さんの横顔を眺めていると、可愛く初々しく乱れていた姿を蘇らせてしまうほど僕は浮足立った。

 これだから七海さんと会ってはいけないんだ。

 この子を僕のものにしたいって独占欲が、頭をもたげ始めるから。

 許されない恋をしている僕には、そんなもの必要ないというのに──。


「窮屈だったよね、でも助かった。赤ペンも、ありがと」
「いえ、そんな……」


 講義が終わると、七海さんはそう言ってそそくさと講義室を出て行った。

 熱心にノートを取っていた七海さんとは打って変わって、僕のノートには途中までしか記されていない。

 赤ペンを使うタイミングが同じだったから、七海さんが気兼ねなく使えるように僕はジッとしていた。

 ──なんて、言い訳。

 本当は、密着した七海さんの存在がたまらなく嬉しくて、喜びに浸っていただけだ。

 お願い……誰か僕を叱って。思いっきり殴って目を覚まさせて。

 七海さんに恋をした僕は、自責の念すら軽んじ始めている。

 あり得ない期待を、抱こうとしている。

 贖罪の気持ちを持ちながら恋をする、矛盾に満ちた僕はその狭間で苦しみもがいている。

 しかし、運命の悪戯はこれだけでは終わらなかった。




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