二度目の初恋

須藤慎弥

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第2話

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 そこはとにかく緑がたくさんある場所で、現世のようにコンクリートで造られたビルなど一つも無かった。

 卯月は汚れた粗末な衣服を纏い、幼い妹に自分の食べものを分け与えていたせいで常に空腹で、それを満たそうと川の水を飲んでは腹を下した。

 いつ何時鳴り響くか分からない大きなサイレンに怯えながら暮らし、毎日を必死で生きていた。親は居たのか居なかったのか、定かでない。

 そんなある日の夕方、一挙に辺りが騒がしくなった。それを聞いた卯月も急いで支度を始める。心がざわつき、耳をつんざくような不快極まりない音に急かされるようにして慌てて妹を背負った。


「はぁ、はぁ……っ」


 棒のように細い足では速くは走れなかったけれど、同じ場所へ駆ける大人について行けば散り舞う火の玉を避けられる。無心だった。
 地を掘って造られた人工的な穴の中で、何十人もの人間が鮨詰め状態で事態の収束を待った。

 その時、背負った妹ごと卯月を抱き締めてくれる青年が居た。


「〝ゆずき〟、ちゃんと飯は食っているのか」


 卯月は頷いた。だが青年は卯月の強がりに眉を顰め、痩せ細った手に竹皮で包まれた塩むすびを握らせた。


「妹を守りたいならばきちんと食え。顔色が悪いぞ」
「食べているさ。隣のおじさんからさつまいもをたくさん頂いたから、今日はご馳走だよ」
「米は?」
「…………」


 間髪入れずに尋ねられるも、二つも嘘は吐けなかった。
 さつまいもなど貰っていないからご馳走の予定は無い。高級品である米などしばらく口にしていない。無言で俯く卯月の頬は痩け、目の下は薄い青紫色のクマができていた。

 満足に固形物を食べていないのは明白で、身なりの綺麗な青年の表情は一層険しくなる。


「なぜ家に来ない。いくらでも分けてやると言っただろ」
「食うに困っているのはどこも一緒だ。僕よりも困っている人に分けてあげてくれ」
「俺はゆずきが心配なんだ」
「僕なら大丈夫だ」


 卯月を案ずる声に重ねた、精一杯の虚勢。
 ただそれは、強がりと感謝の気持ちが半々だった。

 ぼやけた視界に映る青年に、卯月は弱々しい笑顔を向ける。


「大和くん、僕ら兄妹を気にかけてくれてありがとう。大和くんはいつも優しい気持ちをくれるから好きだ」
「……俺もだよ、ゆずき。こんな悲惨な時代は間もなく終わる。きっとだ。だから辛抱してくれ。俺が必ず……」



 ──卯月は、力強く頷いてくれた青年の言葉をそれ以上思い出す事が出来なかった。
 何年経っても、どれだけ脳を奮い立たせても、このあと程なくして「大和くん……」と切なく漏らし、卯月と妹は河川敷で息絶える。
 その映像しか浮かばないのだ。




 約十年前は恐ろしいほど鮮明にフラッシュバックしたそれが、いつからかぼんやりとし始め、現在はほとんど思い出す事が出来ない。
 しかし、そういう記憶があったというのは覚えている。
 両親に嘘を吐いていたわけではないけれど、いくつも病院を受診させられるうちに、卯月は子どもながらに「これは黙っていた方がいい事なんだ」と悟った。

 それから徐々に薄らいだ、遠い記憶。
 とにかく、危機感無く青い空が望めるだけで〝この世は素晴らしく平和だ〟と込み上げてくるものがあるほどには、刻まれた記憶は凄惨だった。

 このまま忘れ去る事が出来ればいい。
 そう思っていたけれど、死ぬのが惜しかった存在が居たという強烈な記憶だけは消えてくれず、何か大事なものを忘れているような不明瞭さが卯月の心にはずっと在った。

 それがまさか、ある日突然覚醒するとは夢にも思わず、だからといって確証の無い話を彼に打ち明けるわけにもいかなかった。

 当時を覚えているのは卯月だけ。しかも、真実かどうかを卯月自身にも確かめる術が無い。


「大和くん……」


 クラスメイト達と楽しげに語らう大和を、卯月はもの悲しげに窓際の席からいつも見ていた。

 気さくでスポーツ万能、おまけに頭のいい彼は転校初日からあっという間にクラスの中心人物となり、且つ現在の彼も裕福な家柄のようで、育ちの良さが分かる立ち居振る舞いは一目置かれて当然だ。

 卯月はそんな彼を、卒業までの約一年間ただ黙って見つめ続けたのだった。




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