恋というものは

須藤慎弥

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はじめての巣作り

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◆ 天 ◆



 薄いグレーのカッターシャツに濃紺のネクタイを締め、チェック柄の紺色のスラックスを履くと潤は別人のようになってしまう。

 裸で居る時は一瞬たりとも離れないでいてくれるのに、それを着ると何時間も天のそばから居なくなる。

 天は、潤が制服を着始めるこの時間が大嫌いだった。


「行かないで……! 潤くん、行かないでよっ」
「天くん……」


 天の腕を優しく擦る潤はとても困った顔をしているが、そんなもの気にしていられない。

 こんなにお願いしているのに、なぜ支度をするのか。なぜ何度も残酷な言葉を吐くのか。

 「行ってくるよ」と苦しげに言われても、「行かないで」としか言えない天の心は寒々しくなる一方だ。

 頷けば、潤は行ってしまう。

 しかも今日は一日授業があるという。

 毎朝駄々をこねて潤を困らせている天だが、昨日まではほんの四時間だと諭されて渋々納得し、きちんと送り出せていたつもりだ。

 けれど今日はその倍、いやそれ以上、潤はここへ戻らない。

 朝陽が夕陽にかわるまで、いったい何時間あるんだと考えるとゾッとする。


「無理……無理……っ! 夕方までひとりぼっちなんて耐えられないよ! 俺を置いて行かないで……一緒に連れてってよ……! 俺も潤くんと授業受ける!」
「それは……っ、それはとっても魅力的な提案だけど、今の天くんはフェロモン撒き散らすからダメだよ」
「潤くんがバイバイ言う方がダメだと思うけど!」


 発狂に近い声を上げ、みっともなく縋っても何も恥ずかしくない。

 恋人がこんなに「寂しい」と訴えているのだから、それを聞き入れてくれない潤が悪いと責任転嫁して、天は突拍子もない事を言い始めた。

 おそらく天の制服姿を思い浮かべた潤は一瞬だけ破顔しかけたものの、すぐに表情は引き締まる。


「二回お薬飲んで、眠ってたらあっという間だから。……ね? 天くんはいい子いい子でしょ?」
「うーっ!」
「連れて行きたいのは山々なんだけど」
「じゃあ連れてって!」
「ふふっ……駄々っ子可愛い。連れて行くにしても、制服はどうするの? 年齢は? 偽るの?」
「そ、そうだよ! 転校生って事にしよ!」
「あはは……っ、もし天くんが制服着て学校に来たら、一年生と間違えられちゃうかもしれないね。僕と同じ教室っていうのは確実に無理だ」
「それだと意味無いじゃんー!」
「あははは……っ」


 「天くん面白い」と言われても、何も嬉しくない。潤の笑顔は最高に素敵だけれど、片時も離れたくない天は必死だった。

 だがそんな天の無謀な提案を笑い飛ばした潤は、いそいそと抑制剤を手にし、不満そうに唇を尖らす天の口に放り込む。

 プラスチック製の軽いコップに常温の水を注ぎ、「飲んで」と促す所作は淡々としていた。

 コクン、と二種類の薬を飲み下すと、潤は「よくできました」とばかりに天の頭を撫でてくれたが、それだけだ。


「……行っちゃうの」


 温かな手のひらにうっとりしかけたのも束の間、潤は天を横たえ、薄い毛布を首元までしっかりとかけるや早々に鞄を手にした。


「うん。毎朝言ってると思うけど、僕たちの将来のためだからね」
「……分かってるけど分かりたくない……。行かないでほしい……。潤くん……」
「あぁ、もう。僕を困らせないで、天くん。可愛くて可愛くてどうにかなっちゃいそうだよ。僕がおかしくなってもいいの?」
「……おかしくなったら、行かないでくれる?」
「そういうところだよっ」


 天の懇願は、確実に潤の心に響いているはずなのだ。そして天も、口酸っぱく毎日聞かされる潤の言葉を理解している。

 こんな状態でなければ、天だって潤を困らせるような言動はしない。したくない。

 性別のヒエラルキーはどうしようもないが、潤は天より四つも年下で、且つ学生である。

 自分が引っ張ってやらなければという思いに駆られ、潤の前では努めて冷静でいようとするがゆえに普段がドライ過ぎるのだ。

 そのせいで潤は、ギャップにやられている。

 離れないでいられるなら、いっそおかしくなればいい──。

 状況的にそういう風に捉えるしかない潤は胸元を押さえ、しばらく悶絶していたが、天のフェロモンの変化を嗅ぎ分けるなり焦った様子で家を出て行った。

 新居から高校まで、どれくらいかかるかを天は知らない。

 電車で数駅とは聞いているけれど、あの潤が廊下を駆けていた事からも遅刻寸前なのかもしれなかった。


「……行っちゃった……」


 ピッ、カチャン……と慣れないオートロックの施錠音がすると、途端に静まり返る室内。

 天の呟きは自らにしか届かず、ひとりぼっちになった寂しさを埋めようと頭まで毛布を被ってみるが気休めにもならない。

 潤との朝の攻防は、結末が分かっていながらも彼がまだそこに居るので寂しさはほんのちょっとだ。

 だが、いざ独りになると心に冷風が吹き荒び、しまいには凍りついてしまう。

 寂しい。

 寂しい。

 寂しい。

 寂しい。

 形の無い冷たい感情が、次々と襲ってくる。

 泣きたくもないのに、涙が溢れてくる。

 そうこうしていると抑制剤が効き始め「あれ?」と平静を取り戻し、自らの醜態にひとしきり頭を抱えた後、潤に詫びのメッセージを送る。

 これがこの五日のルーティンとなっている。

 抑制剤が体内に浸透するまでの時間はまちまちで、早い時は三十分で意識がクリアになった。

 今日はそのパターンらしく、潤の残り香があればわずかな寂しさを睡眠で紛らわす事が出来る。


「潤くん……帰んなくていいのかな」


 散々っぱら彼に「行かないで」と駄々をこねておきながら、気持ちが穏やかになると今度は、自分が潤を苦しめていやしないかと不安になってくる。

 多くは語らない潤だけれど、彼の母親が天との交際を反対しているのであろう事は見ていれば分かる。

 発情期中は天のもとで過ごすと決めてくれた潤は、ここでも何度か電話を手に苛立っていた。実際に、微かに言い争うような声色を聞いた事もある。

 つい昨日も、うとうとしていた天の耳にそれが聞こえた。ミルフィーユ鍋を食べた後の事だ。

 ひどくツラそうに、潤は電話に向かって「母さんもうやめて」と言っていて、天はハッとした。

 〝二人の将来のため〟、潤が母親と交わした約束は首席での卒業。

 しかし天は、信じられなかった。

 潤がそう打ち明けてくれた時、天はその場では言えなかったのだが、それですんなりとOKがもらえるとは思えなかったのだ。

 当然ながら潤は、母親からどのような言葉で反対されているのかを話してくれるわけもなく。

 Ω性への差別的な発言が原因で自身の性を憎んでいた身としては、明らかに天が傷付くと分かっていて言わずにいてくれる潤の優しさに、大いに助かっている部分もある。


「潤くんは突然変異のαなんだよなぁ……」


 β性のみの家系からα性の者が生まれる確率は、ゼロに等しい。潤のかかりつけ医も、〝医師歴云十年だがこのようなデータは見た事が無い〟と言っていたそうで、一時期は被検体要員にもなりかけたと潤は苦笑いしていた。

 この世の中は、α性というだけで持て囃される。

 何においても秀でている彼らは、生まれ落ちた瞬間から人生の勝ち組だ。

 そんな潤を、母親は手放したくないのだろう。その血を絶やしたくないという思いもあるのかもしれない。

 天が男性だという事を知られているのかは分からないが、α性とΩ性の間に生まれる子どもは一般的に親の遺伝子を引き継がない場合が多く、隔世遺伝の割合が大きい。


「でも……αだったら違うもんな……」


 ぼやいた矢先、謝罪文を送った天のスマホが短く振動する。


「〝今朝も可愛い天くんが見られて幸せでした。いい子に待っててね〟……か。どっちが年上なんだか分かんないな」


 潤からは、まるで我儘な年下の恋人を甘やかし宥めるようなメッセージが返ってきた。

 ──性別に縛られずに恋をしよう。

 二人でそう誓って、まだ半年ほど。

 様々あった〝しるし〟のおかげで判明した潤と天は運命の番に間違いないのだろうが、思わぬ壁が立ち塞がってしまった。

 何しろ、偉い研究者達はこぞって新たなデータを発表しているのだ。

 両親が共にα性である場合のみ、その強力で優秀な遺伝子は親から子へ引き継がれる──と。

 彼の母親が天との交際を快く思っていない理由。

 それは、想像に難くない。


「……よし。冷静なうちに言っとこう。薬が切れたらまたワケ分かんなくなって、忘れちゃうかもしれないもんな」


 スマホを手にした天は、抑制剤が効いている今のうちにと文章をしたためた。

 明日から二連休。

 面倒なそぶりも、疲れた様子も見せなかった潤は、母親から嫌味を言われながら五日もそばに居てくれた。

 残り二日くらい何とかなる。


「〝潤くん、俺のこと嫌になったらすぐに言ってね。俺たぶんΩの中でも出来が悪い方のΩだと思うから、潤くんが我慢することないからね。〟……。うーん、これはいきなり過ぎるかな」


 悩んだけれど、読み返してすぐに送信した天に迷いは無かった。

 逃げ場は作っておいてあげなければと思ったのだ。

 運命の番だからと、血の繋がった家族を蔑ろにさせてしまってはいけない。

 天と母親の板挟みで潤が苦しむのは、もっといけない。


「……潤くん……」


 抑制剤を服用してからニ時間ほどが経っていた。

 天はおもむろに起き上がり、ふらりと立ち上がる。

 大好きな潤の匂いが残る毛布を引き摺りながら向かったのは、段ボールがいくつか転がったもう一つの洋室だった。




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