恋というものは

須藤慎弥

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はじめての巣作り

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● ● ●



 お湯で濡らしたタオルで天の全身を丁寧に拭う潤の頭から、しょんぼりと垂れたフサフサの耳が見えた。

 膝が笑い歩けなくなった天は、正座するどころかベッドに横たわっている。

 考えなしに行動しようとした事を謝りたいのだが、「ごめんね」を繰り返す潤がそれをさせてくれない。


「天くん、……怒ってる?」


 噛み跡が強く残ってしまった首筋を撫で、今にも泣き出しそうな表情で天を窺う潤は終始この調子だ。

 天はフサフサの尻尾まで見え始めた潤を抱き寄せ、「怒ってないよ」と言って背中を撫でてやる。

 無意識に放っていた怒りのオーラが、彼の欲情フェロモンを上回っていた衝撃はまだ鮮明だけれど、怒らせてしまったのは自分だという自覚があった。

 天の体を清めてすぐ、当たり前のように正座しようとした彼を止めたのは良心の呵責からだ。


「ほんと? ほんとに怒ってない?」
「怒ってないってば。てか怒ってたのは潤くんだろ。なんであんなにキレてたの」
「だって天くんがっ、「帰る」なんて……」


 カマをかけてみると、潤も怒りの理由をきちんと覚えていた。

 なんで怒ってたんだっけ……と言いかねないほど、普段の潤は温厚で〝怒〟の感情が薄い。天に対しては特に、声を荒げる事すら無いのだ。

 あのオーラはやはり、無意識下で放たれていた。あれはきっと、α性の根幹にある支配欲からきている。

 Ω性である天の行動が潤の気に触り、しきりに「許せない」と呟かれていた事を思うと、自らの性を未だ受け入れられていない彼の本能を呼び覚ましてしまった天の方が、何となく罪悪感が強い気がした。

 主従関係とは言わないまでも、α性と番う事で生かされるΩ性の天の心には、彼の葛藤も知るだけにどうしても卑屈な思いが宿ってしまう。


「潤くん、……さっきお母さんに怒られたんじゃないの? 俺のせいで今学校休んでるよね」
「それは……っ」


 腹に乗った潤をグッと引き寄せて抱き締める。

 二人の性別、β性のみである潤の家族、此処が造られた経緯を考えると、恋人がヤキモチを焼いた──それだけで済む話ではなかった。


「……ごめんね、潤くん」
「え……?」
「俺がΩ性じゃなかったら……発情期なんて無かったら……潤くんに無理させることも、嫌な気持ちになる事もなかったのにね」
「天くん! それは違っ……」
「俺、次からはちゃんと抑制剤飲むよ」
「天くん……っ」


 悲観していた人生が、潤が現れてからは一気に華やいだ。天の毎日が美しく、楽しいものになった。

 潤の存在を手放したくはない。けれど天の存在は、恐らく潤を不快にする言葉ばかり生む。

 突き放すように言ってしまったけれど、それは今後どうしていくのが適切か二人で考える時間を欲したからだ。

 二人の性別も、潤の家族も変えられない。

 だが離れられない──。

 少しだけ高い位置から、ハの字眉の情けない表情の美形が天を見下ろしている。

 心がくすぐったい。

 天への恋心を微塵も隠さない愛おしい男は、今は特に敏感な天の本能をすぐに刺激してくる。

 しばらく見詰め合っていると、潤のために離れようとした強い気持ちが別のものへと変化していった。


「……一人で帰るの不安だから、潤くん……俺を家まで送ってくれないかな?」
「本当に帰る気なのっ!?」
「うん」
「…………っ」
「俺ね、潤くんがどんな気持ちでここに居たか、分かってた気でいたんだ。寂しがり屋な潤くんは、いきなり隔離されちゃって、α性だからって将来を託されて、……不平等な世の中が嫌いだって言ってたもんね」


 天に馬乗りになった潤を目で追うと、僅かにあの赤黒いオーラが見え始めた。

 一見不吉な言葉を放ちそうな天の言い草は、潤を盛大に焦らせてしまう。


「そうだよっ、僕は性別に縛られたくない! だから天くんが謝る必要も無いんだよっ」
「……俺も、潤くんも、自分の性別大っ嫌いなんだよね。でも世の中も、遺伝子も、俺達の意思を無視する。本能には逆らえないって……痛いほど分かったよ」
「何が言いたいの、天くん」
「一応、俺は年上だからさ。潤くんにばっか甘えてらんない」
「……別れたいって言いたいの?」


 普段とは違う潤の低い声と同時に、赤黒いオーラがふた回りは大きくなった。

 天が心に秘めたのは、そういう物騒なものを引き出すための諭しではない。

 何ならもっとずるくて、年下に向けていい促しでもなく。

 直接的に言うのは躊躇いがある。

 どう話せば伝わるのか考えようにも、オーラを前にすると思考が定まらない。一旦それを引っ込めてからでないと、まともに目も見られない。


「ち、違うよ。……うーん、……どう言ったらいいのかな。別れるとかじゃない。俺は潤くんが嫌な気持ちになってほしくなくて……」
「嫌な気持ちになんてなってないよ! 僕は誰に何を言われても天くんと居たいんだ! 僕が寂しがり屋なの知ってるでしょっ? 甘えてらんないって言うけど、僕は天くんが甘えてくれて嬉しかったよ! 頼ってくれて、……嬉しかった!」
「うん……。俺も、潤くんが甘えさせてくれて嬉しかった」
「じゃあ帰るなんて言わないでよ! あと三日も残ってるのに、どうするつもりなのっ? 天くんの体はもう、一人じゃ絶対治められないよっ?」


 帰宅の意思が強い事を知った潤は、明らかに苛立っていた。口調は優しいが、声色とオーラが半端ではない。

 非常に躊躇ったものの、潤を落ち着かせるためには意味深な含みを持って彼の瞳に訴えかけるしかなさそうだ。


「だから……〝送って〟って言ってる」


 天はそう言うと、プイと横を向いた。

 はじめは眉間に皺を寄せて泣きそうに瞳を潤ませていた潤だが、数秒経ってから「あ!」と閃きを見せ、勢いよく天に抱きつく。

 熱烈な愛情表現に、小柄な天は「うっ」と呻いた。どうやら意味が通じたらしいが、ここで圧迫死すると何も笑えない。


「わわ、っ……! 年上のくせにって言わないでね。俺がしっかり挨拶出来ればいいんだけど、たぶん潤くんのお母さんは俺に会いたくないだろうから、少しだけ……」
「うん……っ、うん……! 僕達はまだ未熟なんだもん! 二人で逃げちゃお、うるさい世の中から」
「……うん」


 ──俺は最低な〝大人〟だ……。

 まるで、純朴な青年を悪の道にそそのかした淫魔のような気分だ。

 しかし彼は泣きそうな表情から一転、加減も忘れて嬉しそうに抱きつき甘えてくる。大型犬のごとく喜びを爆発させ、怒りのオーラではなく癒やしのフェロモンを漂わせる潤が、可愛くて愛おしくてたまらなかった。

 萎れていたフサフサの耳が、ぴょこんと立った。背後には千切れんばかりに振られるモフモフした尻尾の幻覚まで見えた。

 今が良ければいい。まさかそんな軽率な気持ちでは無いけれど、どうすればいいか分からないものを考え続けて時間を無駄にするくらいなら、潤の笑顔を見ていたかった。

 ずる賢い大人は、計略が巧いと聞く。

 すぐに答えの出ない問題はひとまず後回しにしなければ、α性らしくない大好きな恋人がしくしく泣いてしまう。




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