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◆ しるし ◆ ─潤─
第九十一話
しおりを挟む見覚えのあるマフラーを握り締め、大事そうにそれを抱き締めていた天の姿を見た瞬間、失いかけた期待値が急上昇した。
───天くんが欲情してる……! 兄さんのじゃない、僕のマフラーでムラムラしてる……!
抑制剤は要らないと素早く奪われ、あげく切々と想いを涙目で訴えられた時など心中では大騒ぎだった。
───「我慢するな」って言った……っ? 「二番目でいい」ってどういう事? なんで? どうして? 天くん……あれだけ二番目なんて考えられないって言ってたのに……!
淡いフェロモンにはもちろんの事、あの時の潤は天の一言一句に期待を募らせた。
アルコールのせいではない、突発的な発情期が尾を引いているのだと信じて持って行った抑制剤を、天にも自らにも打つ必要が無かった。
"一番になりたい"
濡れた瞳で天から誘惑された潤に出来る事と言えば、絶頂の最中に牙を剥く可能性を危惧してマフラーを彼の首に巻いてやり、さらに自身でもそこを守ってやること。
いくら気持ちが通じ合ったとしても、衝動的に本能を出すのは天を怖がらせてしまうだけだと思った。
αだと打ち明けるのも、天が一番だと告白するのも、年上の彼に委ねる形であった事は少しばかり後悔が残る。
ギリギリまで、怖かったのだ。
性別の葛藤と嫌悪を知るがゆえに、欲情した天の心が完全に潤を拒絶するイメージがすんなり湧いた。
発情に近く、ヒートからは程遠い、ヒトとしてのナチュラルな欲を顕にした天からは、潤の期待を高める香りしか漂ってこなかった。
「……天くん……」
瞳を閉じると、まぶたの裏には天の姿がすぐに現れて胸が苦しくなる。
両腕には天の感触が。
掌には彼に触れた温もりが。
脳に刻まれた香りの記憶が、……もう恋しい。
日が昇る前にタクシーに乗り込んで帰宅した潤は、生まれて初めて朝帰りをした。
日曜である今日、本当はバイトの時間まで天とイチャイチャしていたかった。
せっかく、せっかく、一番になれたのだ。
天は潤の性別を受け入れ、さらには……「挿れていい」などと潤の理性を木っ端微塵にする台詞を二、三度言い放ち、気が狂う寸前だった。
射精した事で若干落ち着きを取り戻したものの、潤は正直言って全然物足りなかった。
『潤くん。 これ、……いつからあった?』
天の腹に付着した二人の精液を拭っている合間にそっと触れられたのは、はだけたカッターシャツから覗いた赤い三つの点だった。
『あ、これ? 分かんない……どこかにぶつけたのかな。 痛くも痒くもないんだけど、いつからあったんだろ』
『違うよ、ぶつけたんじゃない。 たぶん……違う……』
じゃあ何だと思う?と問うた潤に、恥ずかしそうに俯くだけの天は正解を教えてくれなかった。
いずれ消えるであろう何かに気を取られているよりも、潤は天の表情に釘付けだった。
欲情の時間のお終いを察し、天がマフラーを解いて大事そうに握り締めた様を見て、しまい込んだ性器がまた疼いた。
『なぁなぁ、これ巻いたのって、……噛まないため?』
『……うん。 発情期間じゃないと、僕が天くんのうなじを噛んでも番関係にはならないって分かってるんだけど……フェロモンの出どころを抑えなきゃっていう本能が、αにはあるから……』
『………………』
『……天くん?』
『いや、……潤くんは優しいなぁと思って』
天は終始、頬をピンク色に染めていた。
可愛かった。
彼はずっと、照れていた。
すぐにでもコンビニに走って避妊具を調達し、欲望のままに貫きたいと理性が暴れ出しそうだった。
しかしそれが叶わないのが、α性の歯痒い身の上なのである。
巷で売られている避妊具では、射精時に変化するα性の性器とは合わない。 恐らく潤のサイズに合うものも無い。
誘惑し続ける天に負けてはならないと、抑制剤を何度もチラ見した。
挿入さえしなければいい。 昂る欲と比例して濃厚になるフェロモンに負けそうになったら、自身の腕を噛んで耐えよう。
指先がふやけるほど彼の秘部を弄ったせいで、我慢が限界を越える寸前ではあったが……天の体を傷付けなかった上に共に快感を得られた。
葛藤を抱えてきた二人には、まだあれくらいでちょうど良かったのだ。
互いが完全に自身の性別を受け入れられる日が来るまで、穏やかに天と想い合えたら充分。
何しろ潤も、天も、初恋である。
急ぐ事はない。
あのまま隣で眠っていると、夢うつつに天に挿入してしまっていたかもしれない。
……否、考える間もなくほぼ百%の確率で、潤は寝ぼけて天を襲っていた。
「……はぁ、……」
一睡も出来なかった潤は、設定したアラームよりも先に起き出して自室の窓辺から空を見上げる。
天はあれから、眠れただろうか。
ファンヒーターは三時間で電源が切れてしまうので、その後エアコンの暖房が入るように設定をしてきた。
天が寝坊しても室内が冷えてしまわぬようにして帰ってはきたけれど、「潤くんが恋しい」とまたムラムラして体を火照らせているのではないかと思うと、気が気ではない。
『絶対、絶対、絶対、絶対、襲う自信がある、っていうかその自信しかないから、今日は帰るね』
『……えぇっ?』
情けないとは思ったが、天には正直に話した。
天の体を傷付けたくない。 天が望まないうちに貫きたくない。 我を忘れてうなじを噛んだら目も当てられない。
そんな建て前の一番最初には、 "めいっぱい天くんを愛したい" がくる。
照れくさくてそれは言えなかったが、安らぎの香りを放つ天のそばで眠る事はイコール、素敵な夢を見るという事。
現実と夢の境目が無くなるのは必至であった。
『……分かった。 潤くんの着てるもの一つ置いて帰ってくれたらいいよ』
『えっ? 着てるものって……』
『そのコートがいい。 お願い』
『えぇ? その、……置いて帰るのはいいんだけど、……』
『タクシー代なら俺が払う。 ごめんね、潤くん帰り寒いかもしれないけど、俺にはそれが必要なんだ』
『うん?』
まさに潤が羽織ろうとした瞬間に、学校指定のブラウンのダッフルコートを奪われた。
先週ここに置き忘れたマフラーも、返してくれそうになかった。
『俺もう、潤くんの匂いがないと眠れないんだよ』
『…………っっ♡』
首を傾げた潤の前で、コートをぎゅっと抱き締めた天からこんな事を言われた。
この時、帰るという決断がグラグラに揺れたのは言うまでもない。
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