恋というものは

須藤慎弥

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◆ 潤の性別  ◆

第八十二話

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 潤の匂いが薄い。

 毎晩これを抱いて眠る事に慣れてしまった週末。

 妻の誤解が晴れた豊から嬉々として飲みに誘われた天は、彼に合わせてハイペースで飲んだせいか久々の感覚に陥っていた。

 帰宅道中から体の芯が熱く、呼吸も乱れて目蓋が重い。

 歩くごとに体内がぽかぽかしていき、やっとの事で家路についてもシャワーを浴びるので精一杯だった。


「……はぁ、……体熱いなー……」


 顔を赤らめた上司に二十一時の知らせが出来るほどには、天は酒がそれほど弱くない。

 畳まれた布団に頭を乗せ、潤のマフラーを勝手に拝借し胸に抱き締めて横になる。

 この五日で習慣化したこれが、痛い行為だという事に気付いてもやめられなかった。

 もう少しで潤の匂いが消えてしまう。

 毎日声を聞いているのに、どんどん寂しさが募っている。

 目を閉じて潤の残像と残り香に思いを馳せていると、次第に腰が落ち着かなくなってきた。

 しかしこれは毎晩の事だ。 天を気にかけて毎日連絡してくる潤が忘れさせてくれないので、声だけは容易く鼓膜に蘇る。

 オフィス内でのデスクワーク中も、取引先との商談中も、ふとした時に潤の「天くん」と呼ぶ声がよぎった。

 だらしなく横になった今も、声だけは鮮明なので匂いと共にここで過ごした日々を思い出す。

 毎夜、嬉しくて寂しくて悲しい。


「潤くん……」


 酔った気でいる天はこの時、自身がふわふわとフェロモンを放ち始めた事に気付いていなかった。

 ヒートによく似た感覚ではあるものの、これは久しぶりに摂取したアルコールのせいだと信じて疑わなかった。

 天は、朝晩欠かさず連絡をしてくる潤の事が、毎日好きになっていった。

 月曜日の早朝にも、天は潤に「二番目なんて無理だ」と告げた。

 浅ましいのかもしれないけれど、「本当は一番目がいい」と匂わせていたのだ。

 しかし潤は、あっさりと引く。

 天にはそれが「二番目が嫌ならいいや」と言われているように聞こえてしまい、自分で匂わせたくせに勝手に落ち込んだ。

 潤が思い人への気持ちを成就させるためには、要らぬ世話で天がけしかけた「略奪」しか無い。 だが心根優しい潤がそんな事をするはずがないと知っているからこそ、天はいつまでたっても潤の一番目にはなれないのである。

 マフラーを抱いて潤への想いを募らせていると、性別ゆえに一生この手の葛藤とは無縁だと思っていたこれまでが覆ってしまった。


「はぁ、……Ωだって、好きな人くらいいたっていいよねー」


 潤にこれ以上迷惑さえ掛けなければ、想うだけなら構わないはず。

 彼が誰を好きでいようが、一番目になりたいなどと厚かましい思いを抱かない限り、潤はきっと天を見捨てない。

 理解者でいると言ってくれた。

 どこに居ても、天が困っていたら駆けつけると言ってくれた。

 天が長年、嫌で嫌でしょうがなかった性別を、好きな人が理解してくれている。

 好きな人に好きな人が居るという、なんとも無謀な恋をするとは思わなかったが……天はそれだけで充分だと思った。


「……潤くんの匂い、……薄くなってる……」


 だんだんと意識が朦朧としてきた天は、握り締めたマフラー片手に畳へとずり落ちる。

 体に力が入らない。 まだ眠たくもないのに目蓋が開かない。

 濡れた髪を乾かす事も出来ず、ファンヒーターのスイッチも押していない室内はキンキンに冷え切っていたが、身体はどんどん熱くなってくる。

 酔っ払うとはこういう事なのかと、虚ろな意識の中で見当違いを思っていた。


「……ん、……電、話……」


 仕事中のマナーモードを解除し忘れていた天のスマホが、脱ぎ散らかしたコートのポケットで振動音を響かせていた。

 夜のこの頃合い。

 ───きっと、潤だ。

 大体いつも同じような時間に、天の体を心配する言葉と「おやすみ」を言うためだけにかけてくる、律儀で誠実な年下の理解者が今日も天に一喜一憂をもたらす。


「潤くん……っ」


 声を聞くと切なくなる。 通話が終わると寂しさに襲われて悲しくなる。

 毎回、彼からの電話を取らなければこんな思いをしなくて済むのにと、自身の意思の弱さに地団駄を踏む。

 それでも、声が聞きたかった。

 立ち上がれず這って移動し、脱ぎ捨てたコートの中からスマホを取り出すと、画面には見慣れたその人の名前が表示されている。


 ───潤くん。 ……潤くん。 会いたいよ。 声を聞くと会いたくなっちゃうよ……。


「……潤、……く、ん……」
『天くん……? 天くん、どうしたの? 気分悪いの?』


 大好きな潤の穏やかな声が、たちまち天の全身に浸透した。

 また今日も、忘れさせてくれない。

 天を心配する声音はいつもと変わらないが、マフラーを握り締めて彼を脳裏によぎらせていた真っ最中だったからか、苦しかった胸がさらに痛みを帯びた。


「う、ううん、……っ、……だい、じょぶ、……っ」
『大丈夫そうに聞こえないんだけど。 心配だからお家行っていい?』


 ───来ちゃだめ。 こんな姿、見られたくない。 酔っ払って悪酔いしたところなんか、絶対に見せたくない。


 意味深に握り締めたマフラーを持ち主に返さなかった、天のバツが悪い。

 毎晩これを抱き締めて寝ていたのがバレたら、いよいよ気持ち悪がられる。


 潤の匂いが落ち着くから。
 潤が隣に居てくれている気分を味わえて、ささやかな幸せを感じていられたから。


 そんな言い訳を口走って潤に溜め息でも吐かれたら、性別の葛藤の前に朽ちてしまいたくなる。


 ───潤くんは俺の心配なんかしなくていい。  “二番目” でいいから好きになって、なんて言いたくないんだよ……っ。


「あ、っ……だめ、……むり、っ」


 絶対に来るな、と言う前に、天の指先が意識と共に事切れた。

 体を丸め、浅く息を吐く天の眦からはいくつも滴が溢れている。

 潤の優しさが切なかった。

 今日の夜の通話は、悲しみだけだった。



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