恋というものは

須藤慎弥

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◆ 好きな人 ◆ ─潤─

第八十話

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 一気に酔いが覚めたらしい豊の声のトーンが、いつも通りの美丈夫のそれになった。

 豊は、まるで考えもしていなかった事を突き付けられ、何分も沈黙し言葉を失くした。


「───吉武が? 冗談だろ?」
「僕が一番信じたくないよ。 でも分かるでしょ? 天くんの匂い感じたんでしょ?」
「あれはそういう事なのか? ……フェロモンってこと?」
「Ω性特有のものなんだよ。 心を許した人にだけ、嬉しい時や恥ずかしい時、緊張状態が続いた時に、あのフェロモンが無意識に出ちゃうヒトが居るんだって」
「………………」


 とても信じられない……と呟かれても、潤の方が強くそう思っている。

 制服のネクタイを外そうとしていた手を止めて、潤はらしくなく声を荒げた。

 好きな人の心を掴めないもどかしさと、そばに居る事を許されない浅い関係にひどくムカついていた。

 自分とはまったくタイプの違う、天が恋する豊の赤らんだ顔さえイライラの標的だった。

 カッターシャツを脱ぎながら豊に背中を向けると、彼はふと歩み寄り潤の鎖骨辺りを指差す。


「……潤、その赤いの、どうしたんだ」
「赤い? どこ?」


 それは、鏡を見なくては分からない場所にあった。

 潤の左の鎖骨部分に三つ、赤い点が横一列に並ぶようにして浮かび上がっている。


「なんだろ。 気付かなかった」
「それさ、……いや、なんでもない。 とにかく吉武が俺の事好きだってのはあり得ないと思う。 だからそんなに敵意を剥き出しにするな」
「兄さんはどう思ってるの? 天くんのこと可愛がり過ぎじゃないの?」
「放っておけないだけだ」
「あんまり可愛がらないで。 これ以上天くんが兄さんに夢中になったら、どうする気なの。 傷付けたくないって言ったじゃない」
「本当に、必要以上に可愛がってる意識はないんだ」
「クリスマスプレゼントをあげるのは、必要以上だよ」
「俺の中では認識が違う」
「兄さんには美咲さんが居るんだから、二度と誤解を招かないように努めてあげて。 ダメだよ、二股は」
「二股じゃねぇっての」


 年が離れているおかけで、ほとんど経験の無かった兄弟喧嘩のような言い争いを、二人は至って静かに繰り広げる。

 豊が構えば構うだけ、天は彼に夢中になるだろう。 もっと言えば、期待を抱いてしまうかもしれない。

 潤の片思い相手を「奪っちゃいなよ」と発言していた事からも、その可能性がゼロだという保証はない。

 妻から豊を奪いたいとまで思い始めたらどうするのだと、その後の天の気持ちはどうなるのだと、起こってもいない最悪な事態を想像するとヤキモキしてしょうがなかった。

 二番目すら許してもらえない自分には、その心配さえ迷惑甚だしいのかもしれないが。


「……兄さん、酔いが覚めたなら本宅へどうぞ。 美咲さんが待ってるよ。 僕は天くんに電話しなきゃだから」


 豊にそう言った潤は、改めて鏡に向き直って鎖骨に浮かぶ点に触れてみるも、痛み等は感じなかった。

 一度脱いだカッターシャツを羽織り、着替える前に連絡しようとした潤にはすでに豊の姿は見えていない。

 あまり遅くなると眠りを妨げる事になる。

 豊と飲んだあとならば、迷っている間にも天は床についてしまうと指先が急いだ。


「……あれ、おかしいな。 今日いつもより早いのに」
「どうした?」
「天くん、寝ちゃったのかな……。 今日いっぱい飲んでた?」
「いや、普段とそんな変わんなかったと思うが」
「……千鳥足で帰ってきた兄さんの記憶はあてにならない。 ……あ、っ」


 見ないフリをしていた豊は、なぜかまだ本宅へ帰る様子を見せない。

 潤と天の会話が気になるのか、それとも潤の言った事が動揺を生ませてしまったのかは知らないが、呼び出し音の続くスマホを手にした潤が豊に冷めた目を向けた、その時だ。


「天くん……? 天くん、どうしたの? 気分悪いの?」


 呼び出し音が途切れた事で、夜恒例の「お疲れー」を期待した潤の表情が一瞬で強張った。

 呼吸が荒いのだ。

 電話口からも不調が分かるほど、天の声が切なかった。


『う、ううん、……っ、……だい、じょぶ、……っ』
「大丈夫そうに聞こえないんだけど。 心配だからお家行っていい?」
『あ、っ……だめ、……むり、っ』


 はじめは、豊との久しぶりの酒が効いていて具合が悪いのかと思った。

 だがこれは……違う。

 この声の調子と息遣いは、潤が間近で聞いていたあの時のものだ。

 青褪めた潤が「今から行く」と告げる前に、電話は切れてしまった。


「………………」
「潤? おい、吉武がどうかしたのか?」
「───まずい。 天くん、……発情してる」
「なんだって!?」
「行ってくる」


 羽織っただけのカッターシャツのボタンを留め直し、急いでコートを羽織った潤は学生鞄に忍ばせていた緊急抑制剤をポケットに突っ込む。

 グズグズしていられない。

 何が引き金なのかは分からないが、天があの質素極まりない部屋で独り熱と戦っているのだ。

 革靴を履いた潤の腕を取った豊が、必死の形相で止めても無駄である。


「ダメだって! 潤はαなんだ! これ以上お前の体に抑制剤入れたら……っ」
「天くんに約束したの。 いつどこに居ても、天くんが困ってたら助けてあげるって」
「潤! お前はαなんだぞ! そんなもの何度も体に入れていいわけがない!」
「僕も、天くんと同じくらい自分の性別が憎いんだ。 ……α性なんてなるもんじゃないよ」


 言い捨てた潤は、駅まで走った。 確実にタクシーを捕まえるためだ。

 脳に刻んだ天の住所を告げ、急いでほしいと運転手を威圧すると怯えきられて参った。

 アパートに到着し、タクシーから降り立った直後。


「これは……っ」


 これまで一度たりとも覚えの無い濃厚なフェロモンが、外にまで漏れ出ている事に愕然とした。

 潤が鼻の利くαであるから嗅ぎ取れるだけなのかもしれないけれど、こんなにも他者を誘うようなフェロモンは天からは感じた事がない。


「───天くん、開けて! あれっ、え、あ、開いてるし! うわ……っ」


 拳でノックをし、ダメ元でガチャガチャとノブを触ると不用心にも鍵が掛けられていなかった。

 扉を開けた瞬間、部屋中に立ちこめた香りを全身に浴びた潤は思わず一歩下がって鼻と口を塞いだ。

 嗅がないようにしたところで、気休めにもならない。

 しかしこの香りと、奥から聞こえてくる天の声に歩みを止めずにはいられなかった。


「……天くん……っ」


 天は布団も敷かずに、畳の上で何かを握り締めて丸まっていた。

 呼び掛けて近付いていくも、反応が無い。

 鍵も掛けずにこのフェロモンを垂れ流し、通りがかった何者かが天を傷付ける前に来れた事は良かったが、立ち眩みがした潤も相当危うかった。

 抑制剤片手に、潤は息も絶え絶えな天のそばにしゃがみ込む。

 こんな時に何をそんなに大事そうに握り締めているのかと、ふと天に触れた潤が見たものは、───。


「……っ、んっ……は、はぁ、……っ……」
「……そ、……それ、……僕の……」


 本能が何かを試すように、潤はそれを抜き取ろうとした。

 天は嫌だと首を振り、さらに自身の中に抱き込んで丸くなった小さな体を呆然と見詰める。

 奪われまいと頑なに離さない、天の手に握られていたそれは───。

 ここに置き忘れて帰った、潤のマフラーだった。








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