恋というものは

須藤慎弥

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◆ 好きな人 ◆ ─潤─

第七十四話

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 貫きたい衝動を抱えたまま、天には自身を慰める行為を見られたくなかった。

 潤は天に断って、急いで体を拭き上げて二歩先のトイレに駆け込んだ。

 わずかに天の腰に押し当ててしまった自覚はあるが、それは欲情と、子ども滲みたいじけとが折り重なって歯止めが効かなかった。

 「抱っこでお風呂」は非常にハードルが高い。

 年齢的に抑えきれない欲と、天への気持ちに気付いてしまった恋心と、Ω性の放つ強烈なフェロモンに囚われるαの性質すべてが、無情にも同時に襲ってくるのだ。

 そんなもの、抗いようがない。

 だからといって格好悪いところも見せたくない。

 潤には、天の一番になりたいという切なる願望が生まれてしまった。

 葛藤しながらも、潤に体を委ねてくれる天の気持ちに恐怖が宿らないように、理性を押し殺す事など潤にとっては容易い。

 今はまだ、添い寝で充分だ。

  "二番目でいい" という、卑怯かつ便利な言葉を最大限に活用する。

 布団が狭いからと言うと腕枕まで許してくれている、可愛い可愛い年上の人は潤を少しも疑わない。


「……天くん、複雑だったんじゃない?」
「…………何が?」


 左腕に乗った天の重みに幸せを感じながら、潤は唐突に問うてみた。

 顔を上げると唇を奪われると思ったのか、潤の胸元で天のくぐもった声が聞こえた。

 心配でならなかった、美咲との対面。

 天が密かに好意を寄せているのが兄であった事も充分受け入れられないが、それよりも天の気持ちが最優先だった。

 好きな人の妻など、確実に見たいものではなかっただろう。


「憧れの人の奥さんを見ちゃったって事でしょ。 奥さんは天くんを浮気相手だって誤解してたみたいだし……動揺しないはずないよ」
「………………」


 モソモソと布団の中で身動ぎした天が、態勢を変えて潤に背中を向けた。

 これだともっと密着出来る。

 天のお腹に手を回し、拒絶されないのをいい事にグッと自身の体に寄せて抱き締めた。

 これはもはや、完全に「友達」のラインなど無きに等しい。

 
「ま、まぁ、……なんで一緒に来るんだよ、とは思った」
「……だよね」
「でもだからって別にそんな、複雑って事もないよ」
「そうなの? どうして?」
「どうしてって……」


 強がっているだけだと思った。 本心を曝け出してほしいのに、泣くまいと気丈に振る舞っているだけだと。

 恐らく潤自身も、天の思い人が兄だと判明して少なからず戸惑っているために、複雑な胸中を共有したかったのかもしれない。

 まだとてもすべてを話せる心境にはないけれど、天の二つの秘密と葛藤を知った潤はどこまでも寄り添うと決めていた。

 本当は嫌だった、本当はすごく複雑な気持ちだった、……天が正直にそう言ってくれさえすれば、また利便性の良い言葉で繋ぎ止められる。

 潤は待った。

 この長い長い沈黙はまさに天の心を表している。

 ……しかし、左腕にかかった重みが規則的に微かに揺れ始めた。


「………………」
「天くん? え、……天くん寝ちゃったの?」


 体を起こし、顔を覗き見る。 静かに涙でも堪えているのかと思いきや、天はすやすやと寝息を立てていた。


「可愛い……」


 連日この寝顔を拝んでいる潤は、毎晩同じ独り言を呟いている。

 複雑ではなかったのか。 妻と共にやって来た兄に戸惑いを抱かなかったのか。

 あっさりと寝落ちた天を、潤はここぞとばかりにキツく抱き締めて髪にキスを落とした。


「……これさえ無ければなぁ……」


 サラサラの髪から覗く、薄く色付いたうなじ。

 医師の中でもまだ明確に断言出来ないと語られた、番相手と出会ったΩ性にだけ表れる、彼ら特有の証をも潤を切なくさせる。

 天に二つ秘密があるならば、潤も二つの動揺を抱えていた。

 性別が憎い。

 恋をすると、もっと憎い。




… … …



「ほんとに一人で行くの?」
「潤くん、起きてから何回その台詞言ってるんだよ。 大丈夫だってば。 抑制剤も飲んだし、緊急抑制剤も持って行くし」
「……心配だよ……」
「ヤな話なんだけど、ヒート起こす感覚が分かってきたからマジで大丈夫。 何かあっても行き先は病院なんだから」
「………………」


 十時に予約が取れたという天は、朝寝坊する事なく潤の作った朝食を食べ、潤が管理している抑制剤を飲み、九時を過ぎてからいそいそと支度を始めた。

 心配でしょうがない潤は天を追い掛け回し、何度も同じ台詞を言って困らせている。


「潤くんは今日もバイトだろ? 何時から?」
「夕方からラストまで」
「そっか。 お昼には戻るから、ごはん買って来るね。 何食べたいかLINEしといて」
「……そんなの僕が用意するのに」
「いいから潤くんはのんびりしてなって。 じゃあ行ってきます」
「…………行ってらっしゃい」


 彼によく似合うお揃いの柄のマフラーと手袋で防寒した天は、いつもと変わらない様子で年上ぶっていた。

 向こうから施錠されると、無音の室内で取り残された潤は途端に寂しさに襲われる。

 実は、こっそり付いて行く気満々だった。

 だが天に「潤くんはどこに居ても目立つからすぐ分かるんだからな」と釘を刺され、やむなく尾行を断念した。

 一人で行かせたくはなかった。

 番よろしく診察まで付き添いたかった。

 けれど天は頑なに「一人で」行きたがり、「友達」である潤を置いて行った。

 する事がない潤は、忌々しい兄からのお礼の品を眺めてはスマホで天とやり取りをした。

 連絡が途絶えてしまったら、それは危機的状況を意味するのでマメにメッセージを送った。

 鬱陶しいと思われやしないか、「友達」はここまでしないだろ、と一喝されやしないか、返事を打つ度にドキドキした。


「……もうすぐ帰ってくる……っ」


 病院内ではスマホを扱えないとメッセージが届いて一時間ほど経ち、天からの「今から帰るよ」の文面を見た潤は待ちきれず、すぐさま立ち上がってコートを羽織る。

 何事も無くて良かった。

 安堵した潤が外で天を待つ間、冬の寒空を見上げて白い吐息を吐く。


「あ、……! 天くん!」


 向こうから歩んでくる天は潤を見付けて一瞬驚いたような表情を見せたが、次の瞬間、照れたように手を振ってきた。


「天くん……」


 ───好きだと思った。

 天に恋をしていると、思い知った。

 


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