恋というものは

須藤慎弥

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◆ 天の性別 ◆ ─潤─

第五十二話

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 Ωのフェロモンがここまで強烈だとは思わなかった。

 一歩一歩、天が居ると思しき場所へ足を踏み出し進む度に、思考が鈍くなる。

 極めて激しい運動をした後のように呼吸も荒くなり、胸元を押さえていないと動悸をやり過ごせない。

 そして一番苦しいのは、今すぐにでも天を貫きたいという強い性欲が、潤の中で間違いなく湧いてしまっている事。

 これがフェロモンのせいなのかどうかなど、もはや愚問だった。


「……ここで打っとこう。 もう無理だ……」


 呟いた潤は、足早にトイレへと駆け込む。

 一刻も早く天の元へ行ってやりたいのは山々なのだが、このままでは抑制剤を打ってやるどころかその場で天を犯してしまう。

 考える間もなくその事だけで頭の中はいっぱいになり、こうして地に足をつけて自制している今も、徐々に乱暴な思考に侵され始めていた。

 使った事のない抑制剤を手に取り、空気が入らないように注射器で液剤を半量吸い上げる。 体内から湧き上がる熱と欲で指先が震え、眩しくもないのに目元を細めて何とか準備は出来た。

 左手で服を捲り、少しでも油断すると落としてしまいそうな不安を覚えながら、震える右手で注射器を持ち直し脇腹を刺す。

 躊躇いなど無かった。

 潤が最も恐れているαらしい間違いを、他ならぬ天に犯さないでいられるのなら何だってする。


「……はぁ……っ。 天くん、あとちょっとだけ、……我慢してね……」


 早くも替えの注射器で残りの液剤を吸い上げてしまうと、独りごちた潤は壁に手を付いて熱を冷ますように呼吸を繰り返した。

 どうしようもなく、胸が苦しい。

 この猛烈な下腹部の疼きも、動悸も、本当にたちまち消えてしまうのだろうか。

 緊急抑制剤の即効性を疑ってしまうほど、初めてのフェロモンを体感した潤は、鏡の中の己の険しい顔付きに嫌気が差した。

 ───天がΩだった。

 けれどそんな事はどうでも良かった。

 潤は会えない日々も四六時中 天の事を考えていた。 出会ったあの日から、天の事が片時も頭から離れなかった。

 好きな人が居ると天に打ち明けた時も、どこかで違和感を覚えていた意味がようやく分かった気がする。

  "憧れ" と "好意" は、まるで違う。


「天くん……」


 壁を背に胸元に手をやった潤は、αにはこの時だけしか効果のない抑制剤の即効性を身を持って知った。

 体内に入ってからほんの一分ほどである。

 本能を揺さぶっていたフェロモンのにおいをまったく感じなくなり、みるみるうちに呼吸も安定してきた。

 白みがかった脳内や視界がクリアになっていく様は、妙な感覚という他無かった。

 急いで鞄と抑制剤を手に取った潤は、薄っすらと天の声が漏れ聞こえる『STUFFONLY』と書かれた扉の前で、一瞬だけ立ち止まる。

 何故なら、───。


「……はぁ、っ……ん、っ……んっ……」
「………………!」


 いかにも苦しげで悩ましい声が、フェロモンとは関係なしに潤の耳を犯したからである。

 意を決して扉を開けると、複数のロッカーの前で体を丸めた天が倒れていた。

 潤もそうだったように、激しく脈打つ胸元を押さえてそれに耐えようとする天の体は、小刻みに震えていてとても見ていられない。

 声を掛けると抵抗されるかもしれないと思った潤は、静かに彼へと近付きすぐさま脇腹を顕にした。


「だ、れ……っ? ……痛っ……」


 誰かの気配に振り返ろうとした体を押さえ付けて、有無を言わさず迅速に抑制剤を注射する。

 半量では、おそらくヒートを完全には止められない。 もって十二時間、人によっては周期を無視した発情期間の誘発もあり得る。

 しかし潤は、どんな場合となろうが天を匿うつもりでいた。


「……はぁっ……はぁ、……っ……」


 こんな状態の天を、人目に晒したくない。

 誰にも触れさせたくない。

 苦しそうに呼吸を繰り返す小さな背中に、性別を超えた庇護欲を掻き立てられた。


「…………抱っこするから、力抜いててね」
「……っ! 潤、くん……っ?」
「お願い、暴れないで。 大丈夫。 大丈夫だから」


 所見で抑制剤の効果が表れ始めたと分かるや、潤は無抵抗の天を抱き上げて背中を擦った。

 抑制剤を打った人物が潤だと知った天は、意識がハッキリしてきた証にこぼれ落ちんばかりに瞳を見開く。

 涙の跡を指先で拭ってやると、さらに驚かれた。

 今きっと、天の頭の中では色々な思いがかけ巡っている。

 潤に知られてしまった、本当の性。 隠そうとしていたそれを気付かれてしまった、罪悪感と焦燥感。

 驚愕の面持ちから、眉尻を下げての困り顔に変わった表情を間近で見ていた潤は、どこまでも優しく微笑んでギュッと天の体を抱き締めた。


「今日は僕の家に帰ろう。 ……心配だから」
「…………待て、無理……っ、俺、俺……っ」
「分かってる。 何も言わなくていい。 言いたくないことは、言わなくていい」
「………………!」
「天くん、何も心配しないで。 ……僕と一緒にいる時で良かった。 本当に、……良かった……」
「………………」


 震えの治まった軽い体を、一際強く抱き締める。

 抑制剤の効果は抜群であるはず。

 だが潤は、天から漂うフェロモンとは違う甘い香りに再び脳内が犯されてしまいそうだった。

 好きなのかもしれない。

 天の事が、好きなのかもしれない。

 征服欲でも支配欲でもない、潤の心はただただ愛おしいという新しい想いに満ちていた。




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