恋というものは

須藤慎弥

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◆ ヒート ◆

第三話

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 震える手で、扱った事のない注射器から抑制剤を吸い上げた。

 脇腹か太ももに打てと言われたけれど、我を忘れてしまいそうな天でも自ら注射を打つのはかなり怖かった。


「……っ、……痛……」


 しかし背に腹は替えられない。

 悩んだ末に太ももの外側に針を刺したが、過剰な興奮状態であるからかほんの少ししか痛くなかった。


「はぁ、はぁ、……っ……」


 抑制剤が体に入って数分。

 あれだけ火照っていた体がみるみるうちに冷めていくのが分かる。

 秘部の疼きも、張り詰めていた性器の感覚も、呼吸困難を起こしてしまいそうだった動悸も、嘘のように次第に落ち着いていく。


「……すごいな、これ……」


 予防のための抑制剤とこの緊急抑制剤は、たったこれだけで同等の価格だ。

 βとして生きると決めたからには、絶対に自分は抑制剤を飲み忘れる事などないとたかを括っていた天は、ぺしゃんと床に大の字に寝転び、己の失態に嘆いた。


「どこの誰だか知らないけど……親切な人だ」


 天のフェロモンを嗅ぎ取ったというのに、近付いてもこなかった。

 駆け足で緊急抑制剤を調達し、それを床におざなりに置くのではなく丁寧にハンカチに包んであったところにも人柄が表れている。

 ひとまず会社を辞めなくてはならない事態にならなくて良かった。


「仕送り出来なくなったら困るもんなー。 再就職も高卒じゃこんな大手企業は絶望的だし……」


 薄暗い空を眺めながら、母を思って晩夏の温い風を浴びる。

 これまで俗に言う貧乏だった天だ。

 母子家庭の経済状況では家計を圧迫するだけなので、抑制剤購入の足しになればと天は高校生になってからはアルバイトをして母親を助けていた。

 就職が決まって家を出てからも、「要らない」と言い張る母に無理やり受け取らせている仕送りは欠かさない。

 母を助けてやりたい一心で、高卒でも就職が出来る大手の会社……の、子会社に就き給料の半分は毎月欠かさず仕送りしている。

 これまで高額な抑制剤を購入してもらい続けた罪悪感と、そもそもΩとして産まれてしまった事は未だに天の負い目であるが、背けたくても現実がそうさせてくれない。

 県外から出て来たせいで独り暮らしをする事にはなったが、住まいがボロアパートでも、食事や衣類が質素でも、これまでがこれまでなので何ら苦では無かった。

 この生活が今日、終わりを迎えていたかもしれないと思うと、ようやく落ち着いてきた体に寒気が走った。


「……匂い消えたな。 大丈夫か? 入ってもいい?」
「…………えっ」
「落ち着いたか?」


 聞いておきながら、すでに扉が開かれてしまった。

 大の字で寝転んでいた天を見て一瞬だけ立ち止まった男は、構わず近付いてくる。


「吉武だったのか」
「……時任さん……!」


 まさか近寄ってくるとは思わなかった天は、上から見下ろしてくる男の顔と名前を一致させて驚愕した。



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