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◆ ヒート ◆
第一話
しおりを挟む天は、自分の性別で困った事など無かった。
昨今では病院に行けば良く効く抑制剤を処方してもらえるし、女性の月のもののようにわりと正確に時期の特定も出来る。
早め早めに対処していれば、死ぬまでΩである事は隠し通せるだろう。
ただ如何せん抑制剤は高額だ。
きちんと日数分を飲み切るのを躊躇してしまうくらいには。
「……やば、……薬、家に忘れた……」
呟いた天は、定時までもう間もなくというところで明らかな動悸を感じ、デスクをそのままに慌てて社の屋上に逃げていた。
夕焼けの空を横目に、じっと蹲る。
「はぁ、……っ……はぁ、っ……」
胸元を押さえ、汗ばんできた体を抱き締めて瞳をギュッと瞑る。
今夜辺りから抑制剤を飲み始めれば、発情期間も難無く過ごせると今朝スマホのアプリで確かめたばかりだった。
こんな事なら朝から飲んでおけばよかったと後悔しても、遅い。
呼吸が荒く乱れる。
体が熱くてむず痒く、どれだけ身を捩って誤魔化そうがどうにも出来ない。
蹲っていても膝が笑って震えるほど、全身が性の欲求にまみれていた。
「……か、母さんに、……電話……っ」
天はスラックスのポケットからスマホを取り出すも、視界は歪み、指先が震えて操作が出来なかった。
カシャン、と床に落ちたスマホを拾い上げる余裕も無く、どんどんと高まる熱に恐怖すら覚える。
誰か、助けて───。
心の中でそう切に願うが、ここは社員がそうそう立ち入る場所ではない。
いち早くおかしな動悸に気付いて逃げてきて正解だったと、それだけは安堵しながら眉を顰めた。
あのまま社内に居れば騒ぎになるだけだ。
天はβとしてこの会社に居る。
もっと言えば、自分がΩだと判別されたその日から、βとして生きると決めていた。
男性のΩは、女性のΩに比べて殊更に卑下される世の中だからだ。
幼い頃からその目で、耳で、差別的な発言を周囲から見聞きしていた天には、そうするしか生きていく術がないと早いうちから悟った。
ヒート中のフェロモンを察知したαの者から襲われるかもしれない。 ただでさえ蔑まれるΩの性が会社にバレたら、せっかく高卒で就職した意味も無くなってしまう。
今この状態で街を歩けば性別関係なく餌食となるのが分かっていて、逃げ出さずにはいられなかった。
「……誰か居るのか?」
「────!!」
まずい。 誰か来た。
天は身を縮ませ、蹲ったまま扉から離れ身を隠す。
その微かな足音を聞き付けた人物が、息を呑んだ気配がした。
天が放つ強烈なフェロモンの匂いを嗅いだのだ。
「ッ、ヒート中なのか!? 抑制剤は!?」
姿は見えないが、声を荒げた男性から遠巻きに問われ、藁にもすがる思いで天は顔を上げた。
息も絶え絶えに、姿の見えない相手に向かって上擦った声で助けを求める。
「……ない、っ……ない……!」
「何!?」
「……近付かないで、くださ……っ、」
「分かっている! そこで待っていろ!」
バタン、と扉が閉まる。
勢いよく駆けて行った足音に、天は「もうだめだ……」と項垂れて荒々しい吐息を漏らした。
バレてしまう。
子会社とはいえ名のある企業に勤める事が出来て、ようやく母親を安心させてやれる、楽にしてやれると安堵していた気持ちが、このたった一度のヒートで何もかもが無駄に終わる。
今まで自分の性で困った事など無かった。
しかし今日、初めて憎いと思った。
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