永遠のクロッカス

須藤慎弥

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✦ 永遠のクロッカス ✦

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 海翔はその後、朝の四時まで産科病棟に居た。
 本来担当予定だった永山医師の方のお産が長引き、海翔がそのまま病棟に残る形で夜勤が確定したのである。
 永山医師が分娩にかかりきりなので、急遽夜勤務となった海翔はその夜数時間だけ四階産科の責任者となった。

 乃蒼はというと、早紀に労いの言葉を掛けて、うるさく引き止めてくる月光には「帰る」と嘘を吐いた。
 一番豪華な個室に入院するらしい近藤一家水入らずの中に、乃蒼は居るべきではない。
 今でこそ感動的だったと振り返る事が出来るが、あの立ち会いの場に乃蒼が居た事はやはりどう考えてもおかしいと思う。

 それもこれも、不甲斐なかった月光のせいだ。
 ただし過去形にしてやっている。
 我が子を抱いた月光の横顔が、未来の良い父親像を彷彿とさせたからだ。
 思えば学生時代も再会してからも、乃蒼はこの日を期待し、そして予知していた。

『俺を相手にしてる時間があったら、女と結婚して、月光に似た可愛い子どもをたーくさん作った方が、絶対にいい』

 苦しかった後悔に取り憑かれた日々の中、あえてそれを脳裏に描く事はしなかったけれど、その光景はいつもいつも乃蒼の頭のどこかにあった。
 不安と諦念によって蓋をしていたイメージが現実のものとなっても、心からの「おめでとう」が言える日が来るとは思わなかった。
 月光が早紀と居る姿はまだ慣れる事は出来ないが、あの月光がタジタジな様子を見ると、二人ならこの先もうまくいくような気がして、とても、……安心した。
 

「───乃蒼、お待たせ」


 先程の個室に一人で陣取っていた乃蒼は、白衣を脱ぎながら現れた海翔に微笑みかけた。


「お疲れさま。 海翔……先生」
「ふふ、先生って何?」
「だって先生だったから……めちゃくちゃかっこよかった。 ほんとにお疲れ様」
「ありがとう。 ……あのね、乃蒼。 謝らなきゃいけない事があって」


 この個室に設置された簡易クローゼットに白衣をしまいながら、海翔はすまなそうに乃蒼へ苦笑を向けた。
 その顔は、さすがに疲労が色濃く残っている。
 日勤後に分娩を担当し、間もなく外が明るくなるこの時間まで病棟内の医師室で働いていたのだから、当然と言えば当然だった。

 両腕を広げた海翔の元へ、乃蒼は吸い寄せられるように歩んで行って、清潔な白いカッターシャツ姿のお医者様にぎゅっと抱き付く。
 帰ってていいよ、と言われても断固として帰らなかったのは、こうして勤務終わりの海翔へ一番に「お疲れさま」を言いたかったからだ。
 海翔の勇姿と、赤ん坊を取り上げた際の幸せに満ちた声音と、マスク越しに乃蒼に微笑んでくれた目元を思い出すと、自然と背中に回した腕に力が入る。
 甘える乃蒼の頭を優しく撫でてくれる心地良さにうっとりしていると、海翔は自身の腕時計を外して乃蒼のポケットにしまい込んだ。


「急患来ない限りこの個室空けてもらったから、ここで夜明かしになりそうなんだ。 二時間仮眠させてくれる?」
「え? ……あ、もしかして明日……てかもう今日だな。 昼勤なのか?」
「そう。 明日の日曜は休みなんだけどね……。 乃蒼と入れ違いになっちゃうから、せっかく今日休み取ったって言ってたのに悪いなって……」
「いいんだよ、そんなの。 これからいつでも休み合わせられるじゃん。 今度の職場は休みが取りやすいから、海翔に合わせる事も出来るし」


 そもそも休みを取った事を言っていなかったのだから、それは仕方がない。
 何せ、今しがた見た医師としての海翔の姿を見てしまった以上、「えー仕事なのかよー」などと駄々をこねるような稚拙な真似はしたくなかった。

 申し訳なさそうな海翔を連れて、早く寝ろとばかりにベッドへと促す。
 ほんの一、二時間だが、海翔を待つ間に仮眠を取った乃蒼は遠慮しようとしていたのに、疲れた顔の恋人はそれを許してはくれない。


「……サラッと嬉しい事言ってくれるね」
「わ、っと……。 海翔もさっき言ってくれてたから、お返し。 てか狭いだろ、ゆっくり寝ればいいのに」


 腕を取られて乃蒼をベッドに引きずり込んだ海翔は、ギュッとその体を抱くと「添い寝して」と耳元で囁いた。
 それだけで乃蒼は、ドキッと胸を高鳴らせる。


「お返し? 俺なんか言ってた?」
「……うん。 ここで、月光に言ってた。 俺と乃蒼は一生を共にするって。 忘れたのかー?」
「いや、忘れてないよ。 当たり前の事だから、いちいち覚えてないだけ。 俺の人生設計に、乃蒼と付き合えたら死ぬまで一緒っていうのがプランとして組み込まれてるから」
「………………」
「そこで沈黙されるとヒヤヒヤするんだけど」
「ち、違っ……! 感動して……っ」


 ───当たり前なんだ……。


 "乃蒼と付き合えたら死ぬまで一緒"


 この言葉がどれだけ乃蒼の胸を打つか。
 何気なく言い放った、一途過ぎる海翔の「当たり前の事」がどれだけ乃蒼の心に安らぎを与えるか。

 打算が一切ない海翔は、年甲斐もなく日々新たな恋に浮かれている乃蒼の海翔への気持ちを、恐らく甘く見ている。
 海翔の腕の中から端正な顔を見上げてみれば、何故か瞳を細めた不満そうな表情が待っていた。


「そういえば乃蒼、随分長いこと月光と手握り合ってたね。 俺そっちばっかりに意識がいっちゃったよ」
「えっ? あ、あれは月光が……!」
「処置室行ってみれば、月光に肩を抱かれた乃蒼が赤ちゃん抱っこしてるし? 俺は何を見せられてるのってクラクラしちゃったんだからね」
「だ、だからそれも月光が……!」
「ふふ……っ、ごめんごめん。 意地悪が過ぎた。 好きだよ、……乃蒼」


 今度は乃蒼がムッと唇を尖らせる番だった。
 ヤキモチを焼かれるのはそんなに悪くはないけれど、乃蒼の事が大好きだという想いを全身から溢れさせてくる海翔のふとした冷たい表情は、あまり好きではない。
 不安になる。
 海翔を好きになってしまった乃蒼は、また愛されなくなる事を極端に恐れている。
 それがたとえ作りものだとしても、怖い。


「乃蒼、好きだよ。 愛してる。 そんな顔しないで。 ……ごめんね」
「ヤキモチはいいけどその冷たい顔は嫌だ。 冷たい顔するな」
「……難しい事を言うね」


 ふっと笑みを溢す海翔の胸に、乃蒼は鼻先を擦りつけて甘えた。
 温かな手のひらが、乃蒼の髪をゆっくりと穏やかに撫でる。
 大好き、愛おしい、愛してる、───そんな思いを込めて撫でてくれた気がした。
 海翔の一途な想いが、その手のひらからたっぷりと乃蒼の心に染み込んでいくようだった。







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