永遠のクロッカス

須藤慎弥

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✦ 永遠のクロッカス ✦

✧*。 119

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 二人とはまったく関係ないとは言わないが、絶対に乃蒼はそこに居てはいけないだろうと、三十分前からずっとそう思っていた。

 早紀がいきむ毎に月光の手のひらを強く握り、そのあまりの強さに顔を歪めた月光から乃蒼へ、その痛みが伝染する。
 乃蒼をこの分娩室から出て行かすまいとする月光が、終始乃蒼の手を離さないのだ。
 巻き添えを食った乃蒼が痛みを苦笑で誤魔化していると、ピッタリとした白いゴム手袋とマスクを装着した海翔が、目線は早紀の局部を見据えたまま声を掛けている。


「次の波でしっかりいきんでくださいね。 近藤さん、あと少しで会えますよ」


 なぜ自分が立ち会いをしているのかと謎だらけな胸中ではあったが、一つだけ嬉しい事があった。
 紺に近い、濃い青色の術衣に着替えた海翔の医師姿を、間近で眺められるという点だ。
 月光と共に早紀の頭元に居る乃蒼の位置からは、海翔が何をしているのかはまったく見えないのだが、大きな声で励まし続けるその声を聞けただけでここに居る意味を見出した。

 命の現場で海翔の姿を捉えてときめくなど、極めて低俗である。
 そのため乃蒼は、なるべくそれを悟られないように月光の背中に隠れて気配を消していた。
 ここに何故か乃蒼が入って来ている事はとっくにバレているのだろうが、絶叫中の早紀と目が合ったら最後、暴言を吐かれてしまう。
 月光には何度も言ったが、乃蒼は絶対にそんな事は御免だ。


「嫌だぁぁ! もう嫌よ! 痛いぃぃぃっっ! 月光代わってぇぇぇ!」
「無茶言うなよ~! てか手離してほしいな~! 血が止まりそうなんだけど~!」
「うるせぇぇぇ! 男はなんもできねぇんだからそれくらい我慢しろぉぉぉっ」
「乃蒼どう思う~!? こんな事いっつも言われてんだよ、俺~!」
「お、俺に聞くな! なんで俺がここに居るのかも謎なんだ! 気配消させてよ!」
「あっ、おい! 出て行くなよ~!? 俺がぶっ倒れねぇように見張っててよ~!?」
「分かったから早紀ちゃん励ましてやれ!」
「早紀~痛い~?」
「痛いって言ってるでしょうがぁぁぁっ」
「怒鳴るなって~! 怖えよ~乃蒼~っ」
「俺の名前を呼ぶな!」
「はーい、次の波きたねー。 順調順調。 近藤さん、頑張っていきんでー」


 恐らく今この分娩室は、かつてないほど賑やかであるに違いない。
 本来なら父親である月光しか立ち入れない此処に、乃蒼が許されている理由。
 それは言わずもがなである。

 各々がそれぞれの心持ちで、その瞬間が訪れるのを待ち侘びていた。
 早紀の絶叫と浜本婦長の激励の声が重なり、海翔が「きたきた」と呟いたと同時に、月光と乃蒼の手にこれまで以上の痛みが走る。

 その刹那───。

 新しい生命の産声が分娩室中に響き渡った。


「おめでとうございます。 元気な男の子ですよ。 よく頑張りましたね」


 羊水と血液にまみれた新生児が海翔の腕に抱かれ、迅速に、清潔なタオルを持った浜本の手に渡る。
 一度だけ新生児の心臓付近に触れた海翔はマスク越しに早紀へと笑い掛け、すぐさまへその緒を切った。
 浜本が隣室へと新生児の処置に移るのを見届けてから、残る看護師と共に早速後処置を始めている。


「え、えっ……俺の子……? 俺の子?」
「そうですよ。 ……その目で見て、その腕で抱いてあげてください。 あんなに小さいのに心臓がしっかりと動いて、元気に泣いてるじゃないですか。 このまま早紀さんの後処置をしますから、月光さんと乃蒼は隣室へ」
「あ、あぁ……っ!」


 慄く月光へチラチラと視線をやりながら、海翔は乃蒼にも笑い掛けた。
 乃蒼はずっと月光に手を握られているので、隣室への移動も当然同伴である。
 正式にパパとなった月光に連れられる最中、お疲れ様、と海翔に視線を送ると、彼はしっかりと頷いて誰に対してよりも目元を細めて乃蒼を見た。


 ───惚れた。 いや、惚れ直した。


 命の重みに耐え兼ねていたとは思えないほど、海翔の医師としての姿は決然とした志を感じ、立派の一言だった。
 呆然となった早紀は看護師に話し掛けられてもクタクタ状態で会話が出来る状況になく、それならばうるさい月光が居ない方がかえって良いかもしれないと、乃蒼は苦笑して月光に付いて行った。
 様々な器具を使い、手際良く後処置をする海翔を何度も振り返るが、隣室に足を踏み入れると無情にもその姿は見えなくなる。

 件の月光は、浜本から我が子を受け取る際に初めて、乃蒼の手を離した。
 乃蒼は背伸びをして、月光が抱くその子を見てみた。


「わ、……わぁ…………!」


 タオルで包まれた、シワシワの新生児をじっくりと見ていた乃蒼の瞳が、たちまち潤んだ。
 この赤ん坊がついさっきまで、母である早紀のお腹の中に居たなど信じられない。
 か弱く小さな存在が、月光の腕に抱かれている。
 乃蒼は生まれたての新生児を見た事が無いのに、月光の血を受け継いだその子が何故だか愛おしくてたまらなかった。
 その瞬間まで現場に居た乃蒼は感動に震え、生命の神秘に涙し、そして……奇跡だと思った。


「小さいなぁ……」
「……な、ほんとに……」


 騒いでいた月光も両手に抱いた我が子をまじまじと見ていて、繋いでいた時に感じた彼の手の震えはどうにか落ち着きを取り戻したようだった。
 人差し指で我が子の頬をちょん、と触り、これまで一度も見た事がない穏やかな笑みを浮かべている。
 ほんの十分前までは情けなく狼狽しきりだった月光の横顔が、その腕の中に在るかけがえのない生命を確実に喜んでいた。


「乃蒼も抱っこしてみる?」
「え、……い、いいの?」
「うん」


 浜本が見守る中、月光から赤ん坊をお包みごと受け取った乃蒼の腕に感じた、微かな重み。
 抱いているのか分からなくなるほど、軽かった。
 タオルの隙間から見える小さな手はまだしわくちゃで、万が一母子不明とならないよう足首には名前の入ったゴム製のバンドが巻かれている。

 乃蒼は、この子の父親である月光をじわりと見上げた。
 月光も同じように乃蒼を見下ろし、しばらく見詰め合っていると、走馬灯のように月光との学生時代の思い出が脳内を駆け抜ける。
 それはどれもこれも、都合よく良い所ばかりを切り取ってあり、記憶の中の二人は笑っていた。 
 親友として、あるべき姿のみが乃蒼の心に残っている。


 ───なんだかもう……胸がいっぱいだ。








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