永遠のクロッカス

須藤慎弥

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✦ 永遠のクロッカス ✦

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… … …


 陣痛室の隣の空き病室で、乃蒼は一時間ほどスマホを扱って時間を潰していた。
 月光と戻ってきた乃蒼に、何か言いたそうにしていた海翔に誘われるまま「ここ使って」と通された個室のベッドに横になるという、何とも緊張感のない快適な時間を過ごしている。
 隣からは常に早紀の雄叫びが上がり、それに合わせて月光の慌てる声と足音も漏れ聞こえてきて、ここにゆったりとした時が流れている事が不思議でならない。

 海翔によると、早紀は自宅からの陣痛含めてかれこれ九時間以上は痛みに苦しんでいるらしい。
 どれくらいで赤ん坊が産まれてくるのか、横になってスマホで調べてみたのだが、どれもこれも人それぞれだという結論しか書かれていない。
 早紀のような初産婦は特に時間がかかる場合が多いという事だけは分かったが、平均も定かではないとなると、ついつい瞼が重くなってくる。
 そんな中、二十三時を過ぎた頃。
 コンコン、と控えめなノック音と穏やかな声に、うつらうつらとしていた乃蒼は目を覚ました。


「乃蒼、入るよ」
「……はーい」


 現れた白衣姿の海翔に、猛烈に抱き付きたい衝動に駆られたが抑え、何食わぬ顔で瞼を擦りながらベッドに腰掛けた。


「どんな感じ?」
「早紀さん、分娩室移動だよ。 お知らせに来た」
「そっか。 ……いよいよなんだ」
「うん、……」
「海翔? 大丈夫?」
「いや……ちょっとだけ緊張してる」


 産科経験があるとさすが、こんなにも落ち着いているのかと思っていたがどうやら違うらしい。
 海翔はジッと乃蒼を見詰めて近付いてくる。
 はじめは、こんなに早く命と向き合わなければならない事に心が追い付かないのだろうと思った。
 月光の子どもという事実も、公私混同しないと言いつつやはり気になるのだろう、と。

 だが、つい二時間前の海翔は、志も新たに前向きだった。
 知らせに来ただけならばすぐに出て行くはずが、浮かない顔で乃蒼の前にしょんぼりと立つ理由など一つしかない。
 急がなければならない状況で、乃蒼を問い詰めたい気持ちも匂わせておきながら、綺麗な眼差しだけで語りかけてくる海翔が愛おしかった。


「海翔、きて」
「ん……」


 立ち上がった乃蒼が海翔に両腕を広げると、迷わず抱きついてくる。
 病院特有の香りを纏わせながらギュッと力を込められて、乃蒼の体の芯からじわじわと温かいものが込み上げた。


「……落ち着く?」
「うん……。 ありがとう、乃蒼」
「気になってるんだろ、俺と月光が何話してたのか。 緊張って、海翔が悩んでた事のせいじゃないよな」
「……実は……そう」
「あはは……! 正直だな。 ……好きだよ、海翔。 月光にも惚気てやったんだから」
「えっ……俺達の事、月光に言ったの?」
「当たり前じゃん。 言わなきゃ。 隠したくなかったんだよ、月光には」
「……そうなんだ。 嬉しい……」


 驚きよりも喜びの方が勝った海翔の声に、乃蒼の口角が上がった気がした。
 何ヶ月も笑えていない乃蒼には、久しぶりの感覚だ。
 あれだけ心を囚われていた月光に、親友として冷静な言葉をスラスラと言えたのは、今まさに乃蒼を力強く抱き締めてくれている海翔の存在が居てくれたからに他ならない。

 乃蒼には海翔との時間が足りない。  海翔もきっと、そう感じているはずだ。
 しばらくそうして時間を忘れて抱き合っていたかった乃蒼だが、隣から聞こえた雄叫びに心を乱され、優しく海翔の胸を押した。


「帰ったらゆっくり話しよ。 ここで時間食ってる場合じゃないんだろ」
「そうだった……! 行ってくるね。 ……乃蒼、キスして」
「…………んっ」
「よーし。 頑張れそう!」


 触れ合うだけのキスをした乃蒼と海翔、二人ともがほんのりと頬を染めて照れくさい空気の中に居た。


「ふふっ……行ってらっしゃ……」


 急がねばならないのに離れがたくて、互いに後ろ髪を引かれる思いで、もう一度だけ……と寄り添ったその時だった。
 ノックも無しに走り込んできた男がのしのしと歩んでくる。


「乃蒼! 乃蒼! 産まれるんだって! 乃蒼! ……あっ、おい! 俺の乃蒼に何してた~!?」
「月光さんのではありません。 もう俺の乃蒼ですよ? あと、院内はお静かに願います」
「こんの野郎~……! いいもんね~! 俺は乃蒼の親友だもんね~! 親友だったら別れるとかないから一生繋がってられるもんね~!」
「……小学生かよ」
「まだそんな事を。 乃蒼は俺と一生を共にするんですから、この先、月光さんは乃蒼に関わらないで頂きたい」
「無~理~! 親友なんだから関わらないとか無理だもんね~! ははっ、参ったか~!」
「だから小学生かっての……」


 海翔が言い放ったさり気ないプロポーズのような台詞に、乃蒼はキュンとした。
 しかしそんな甘い惑いは、親友のバカさ加減で薄れてしまいイラつく。
 そこへ夜勤中の看護師二名までも海翔を見付けて走り込んできて、静かだった乃蒼の個室は一気に人口密度が高くなる。


「あっ! 三嶋先生! 今からの近藤さんの分娩お願いできますか!? 三嶋先生には浜本婦長と私が付きますのですぐに分娩室まで来てください!」
「永山先生は?」
「戸田さんがあと五分で到着されるそうなので、永山先生が三嶋先生に近藤さんをお願いしたいとの事です! 戸田さんは経産婦さんで十分間隔になるまで自宅待機していました! なので到着と同時に分娩室濃厚です!」
「分かりました、すぐに行きます。 ……月光さんも行きますよ。 いよいよですからね」
「マジで~!? ちょっ……乃蒼、乃蒼も来て! お願い! 俺ぶっ倒れるかもしれない~!」
「なんでだよ! 気まずいよ! 俺は絶対に行かな……っ」
「二人とも、院内ではお静かに。 一刻を争うので黙って俺に付いてきなさい。 乃蒼もおいで」


 分娩補助のつもりが担当医師に変更になった事を聞かされた海翔の視線は、一瞬にして医師のそれに変わっていた。
 看護師二名が出て行き、その後を海翔も追う。


「はぁ……行くか……」
「……海翔……かっこいい……っ」
「俺の前で惚気るなよ~っ、バカ乃蒼~」
「…………っっ」


 残された月光は足取り重く暗かったが、白衣姿の海翔の背中を見詰める乃蒼はキラキラと瞳を輝かせていた。



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