永遠のクロッカス

須藤慎弥

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✦ 永遠のクロッカス ✦

✧*。 113

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 ドクターコートを羽織った海翔が、更衣室から出て来た。
 扉前で待っていた乃蒼にふわっと微笑み、立ち止まっている暇は無いとばかりに足早にエレベーターへと向かう。
 ついて来て、と振り返られ、心臓がキュッと踊った。


「…………かっこいー」


 明らかに惚けている場合ではないのに、乃蒼は海翔の颯爽とした医師姿に見惚れて出遅れてしまった。


「ん?」
「あ、ごめん。 心の声が漏れた」


 エレベーターに乗り込み、四のボタンを押した海翔に腕を引かれる。
 至近距離で見詰めてくる「三嶋先生」の姿に、乃蒼はもっとドキドキした。


「かっこいいって言った? ……そんな事言っちゃダメ。 緊急停止ボタン押してここで襲っちゃいそうになるよ」
「……っ、それはダメだろ!」
「乃蒼がいけないんでしょ。 こんな時に可愛い事を言うから」
「かっこいいって言っただけじゃんっ。 やっぱ海翔がお医者さん辞めるなんて断固反対だ。 イケメン医師が居なくなったら、患者さんも嘆き悲しむよ」
「イケメン医師ねぇ……」


 四階に到着し、呟きながら笑う「三嶋先生」の後ろ姿に、乃蒼はまたもや懲りずに見惚れた。
 他の医師や男性看護師などを見掛けてもそうはならないので、海翔の白衣姿だけに乃蒼は過敏なのだ。

 そのままテレビや雑誌に出ていてもおかしくない美形と、百八十を越す身長、そして何とも穏やかで柔和な話し方と落ち着いた低音ボイスは、日々やって来る患者達をさぞかし癒やしているに違いない。
 初めてここの出入り口で海翔を見た時も見惚れたが、今はあの時よりも深く海翔を知ってしまった。

 心臓が壊れそうなほど、ときめいて苦しい。
 ボーッと見惚れていたら気を失いそうなくらいだ。


「あ……」


 エレベーターから降りた海翔について歩いていると、赤ん坊の泣き声があちこちから聞こえてきた。
 廊下は静かでも、個々の病室から漏れ聞こえる温かな生命の声に、他の病棟よりも明るく陽気な雰囲気に感じるのは乃蒼だけであろうか。
 きっとそれだけではない、海翔が押し潰されそうになっていた切ない出来事も当然、同時に起こり得る。

 まだ不安や恐怖があると語っていた海翔が心配だ。
 しかしながら、ナースステーションの中へと入って行った海翔は左手には開かれたカルテを持ち、右手ではマウスを握りパソコンを操作しながら、さらには看護師からの口頭での説明を聞いている。
 乃蒼はそんな、同時にいくつもの事をこなしている海翔をやや離れたところから惚れ惚れと見詰めた。
 先程冷静に指示を出してくれた海翔は、あの時すでに医師の顔付きだった。
 誇らしく、頼もしいと思った。

 粗方の情報を頭に叩き込んだ海翔は、ナースステーションから出て来るやすぐに乃蒼の肩を抱いた。
 看護師等から見られていると分かっていて、海翔はわざとそうしているのだ。
 見ようによっては親しい友人のようにも見えるので、乃蒼は肩を抱かれて嬉しかったのもありジッとしておいた。


「世の男達と一緒で、今日ばかりは月光が頼りにならないみたいだ。 陣痛が始まったっていうのも、早紀さんが自分でここに連絡したんだって」
「あいつ……」
「土壇場で強いのは女性なんだよ。 男はいくつになっても精神年齢が低いからね。 月光のパニックは致し方ない事なのかも」


 ……それにしても、だ。
 乃蒼は苦笑しながら、先程の月光との電話を思い出す。
 一番頼りにしたい相手が「どうしよう」と「乃蒼」を連呼し、人生で初めてなのではというほどの大パニックを起こしていた。

 陣痛中の早紀はさぞ腹立たしかったに違いない。
 なぜ、病院でもタクシーの手配でも両親への連絡でもなく、「乃蒼」なんだと。
 苛立つ早紀の胸中を思うと、申し訳なかった。


「そういえば、なんで産婦人科勤務終わったのに海翔が呼び出されたんだ? 医師不足?」
「あ、それはね……」


 乃蒼の肩を抱いたまま、海翔が歩を進めた。
 病棟から少し歩き、同じ階の「陣痛室」と明記された部屋の前で立ち止まる。


「近藤夫妻が、検診の時から分娩担当医師に俺を指名してたんだって」
「指名っ? そんな事出来るのか」
「患者さん側が担当医を希望するっていうのはまぁあるけど、研修医だとなかなか聞かないんじゃないかな……」
「へぇ……」
「月光と話した時、俺がうっかり産婦人科勤務だった、って言っちゃったからね。 知ってる人に出産付いててもらいたいと思ったのかもしれない」
「あぁ、月光はそういうタイプかも。 一回数分でも会話したら「友達」だと思い込むんだよな、月光」
「俺と月光と乃蒼は色々あったのにね……おめでたい性格だ、ほんとに」


 海翔が見せた苦笑は、複雑そのものな胸中を見事に表していた。
 ただでさえ命の重みに押し潰されそうだったのだ。
 乃蒼と気持ちが通って少しは前向きになれたのかもしれないけれど、働く上でまだまだ悩みは尽きないに違いない。

 これからたくさんの事を学び、吸収し、打たれ強くなる、と乃蒼に宣言してくれた。
 自身の適職を自覚していない海翔は、「今は整形外科の外来勤務が主だから、心のモチベーションを維持する時間が取れて良かった」とも言っていて、そんな中で予告なくこんな事になるとは夢にも思わなかっただろう。

 乃蒼を見詰める、美しい苦笑が崩れない。
 月光と乃蒼の関係を誰よりも近くで見てきた海翔は、出来れば関わりたくなかったというのが本音だと思う。
 本当の意味で離れられないのは、乃蒼ではなく月光の方だったのではと、今日の事でよく分かった。

 それならば、まさに今産まれ出ようとする生命の誕生を、乃蒼も海翔も覚悟して関わるしかない。
 産まれてくる命には、何の罪もないからだ。


「……海翔、俺がこんな事言うのもおかしな話だって分かってんだけど、言うね。 海翔はまだ悩んでる最中なのに、命を扱わせてごめん。 しかもその……色々あった月光の赤ちゃんだなんて、俺もまだちょっと現実味がない」
「………………」
「月光とは色々あったけど、今、俺は心の底から海翔と一緒に生きていきたいって、そう思ってるんだ。 俺とのあれこれとか何も考えないで、赤ちゃんとだけ向き合って割り切ってほしい。 ……元気な赤ちゃん、月光に抱かせてあげて」


 いつまで経っても、どんな傷を負わされても、月光を憎みきれない乃蒼は白衣から伸びる海翔の手のひらを強く握った。



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