永遠のクロッカス

須藤慎弥

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✧*。 99 ─海翔─

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 紫色に拘ったのは、クロッカスの花言葉に衝撃を受けたからだ。
 海翔は出入り口に植わったクロッカスの花を見た事がなかったため、プランターの花々を世話する用務員に尋ねて初めて、その名を知った。

 咲く時期、愛で方、花言葉、その由来……調べてみればみるほど、海翔とクロッカスの花には共通するところが多かった。


 "愛の後悔" 


 海翔の心は、まさしくこれに尽きていた。

 この広い空の下、同じ時を刻んでいる以上は、乃蒼がどこに居ても変わらず愛し続けたい。
 乃蒼が振り向いてくれるかどうかが重要なのではなく、どれだけ独りよがりでも、いつまでも乃蒼を想い続けたい。
 何年かかってもいい。
 笑顔を取り戻したその時に、海翔もその場で乃蒼に笑い掛けてあげたい。

 海翔と乃蒼の「愛の後悔」は、時間の流れと共に必ず薄れゆく。
 自分達はそれだけ、大人になってしまったから。
 お互い前を向かなければ生きていけないと、海翔は乃蒼へ横柄にもそんなメッセージを送り続けていた。
 我が心がこれほど脆弱だったとは気付きもせず、自己満足に浸って毎日乃蒼を元気付けているつもりだった。


「……紫色の、クロッカス……」


 恐る恐る開いた乃蒼からのメッセージには、海翔が毎日欠かさず送っていた紫色のクロッカスの写真が添付されていた。
 だがそれは、海翔が送っていたものではなさそうだ。
 この質素な鉢植えは見たことがない。  あげく、その背景は知らない家のベランダのように見えた。

 海翔は、久しぶりに感じた心の揺れに驚愕していた。
 心臓の鼓動が自らの耳に届き、胸を押さえて高鳴りを落ち着かせる。
 拡大してまじまじとクロッカスを眺めたあと、引っ越して以来初めての乃蒼からのメッセージに、スマホを操作する指が震えた。


『去年連れて来てくれた海に居ます』


 写真と共に届いたメッセージには、そう書かれていた。
 短い一文にスクロールの必要はないのに、無意識にその先を探してしまう。


「……海……?」


 顔を上げて、窓の外を見た。
 十九時を過ぎた夜の闇は、これからさらに深まっていく。
 そんな中、乃蒼はひとりで海に居ると言う。


「海……乃蒼と海……」


 その二つが、すぐには結び付かなかった。
 海翔は白衣を脱いでロッカーにしまいながら、近頃ほとんど働かなかった脳をフル回転させる。


「あ……! あの創作和食の……!」


 ロッカーをパタン、と閉めた直後、海翔の脳裏に思い起こされたあの日の記憶。
 キスマークを隠すために貼られた二枚の絆創膏に猛烈に嫉妬して、さらりと乃蒼の唇を奪った海翔の精一杯の禁忌。

 あの時、乃蒼と月光は付き合っていたのだから、あれは侵入してはならない境界線だった。
 分かっていながら、嫉妬を抑え込む事など出来ずに乃蒼の逃げ腰な舌を追った。

 乃蒼への想いが、空っぽに近かった心になみなみと湧き上がってくる。
 自身の弱さに押し潰されていた日々の中で、海翔にとって何よりの救いとなるはずの乃蒼の存在さえ忘れていた事に、己の弱さを見た。

 乃蒼は、待っていてくれたのかもしれない。
 突然寄越さなくなった "愛の後悔" に、絶望させてしまったかもしれない。

 胸が締め付けられた。
 自分だけは乃蒼を傷付けない。 要らないと突き返されるほどの愛量を与えてあげたい。
 そんな海翔の一途な想いを、乃蒼はとうとう───。


「乃蒼……ごめんね……ごめん……っ」


 一途に乃蒼だけを愛する。
 もう、乃蒼の事しか考えられない。
 ……その決意も想いも、脆くなった海翔の心からいつの間にか弾かれていた。


 ───謝らないと……!


 あの海に行けば、乃蒼に会える。
 ある事だけはまだ秘密にしたままさり気なく身分を明かし、乃蒼と美しい夜の海を眺めながら初めて食事をした思い出の場所。

 乃蒼が待っている。
 後悔の象徴を海翔に送り、愛され慣れない彼らしく海翔が来るのを期待せずに待っている。


「……行かなきゃ……っ」


 院内は走ってはいけない。
 だが海翔は抑えきれなかった。


 会いたい。
 会いたい。
 会いたい。

 乃蒼に触れたい。
 乃蒼を抱き締めたい。
 乃蒼に見詰めてほしい。
 乃蒼の心が欲しい。


 赤信号がもどかしかった。
 もどかしくてもどかしくて、車を乗り捨てて走ってやろうかと向こう見ずな事まで思った。

 乃蒼があの海を選んだ事も、紫色のクロッカスを送ってきた意味も、海翔にそれを知らせてきた理由も、すべて汲み取った。
 海翔はついに、八年の月日を経て乃蒼の心に踏み込めたのだ。


 ───乃蒼……!


 到着してすぐ、テトラポットの上に佇んで水平線を見詰めている乃蒼を見付けた。


 ───乃蒼……。


 その背中を思っきり抱き締めたいと焦がれると同時に、目頭が熱くなるほどとろとろとした甘い感情が押し寄せてきて、切なくてたまらなくなった。
 少しでも早く辿り着きたいのに、足取りが重い。
 嬉しくて、苦しくて、まだ信じられなくて、気兼ねなく抱き締めても良いものか悩みながら一歩一歩を踏み締めた。

 足音に気が付いた乃蒼が振り返る。
 髪型と髪色が少し変わっていたが、乃蒼は記憶のままの乃蒼だった。
 たった三ヶ月会わなかっただけで、まるで他人と初めて対峙する時のような緊張感を覚えた。
 目が合うと、乃蒼は瞳を見開いて海翔を凝視する。


「乃蒼……っ」


 その瞬間、海翔は走った。
 テトラポットの上に居た乃蒼に向かって両腕を広げ、おずおずと傾けてきた体を抱いて地面にゆっくりと下ろす。
 乃蒼の感触と体温を目一杯感じたくて、最後に抱いた時よりも痩せたように感じる体をキツく抱き締めた。


「乃蒼……っ。 乃蒼……!」


 乃蒼は、海翔にそうされても何も言わない。
 胸を押されて乃蒼を見下ろすと、綺麗な瞳がしっかりと海翔を捉えている。
 そして彼は、弱々しい声で小さく体を震わせ、……。


「海翔、……もう俺の事、……好きじゃなくなった?」




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