永遠のクロッカス

須藤慎弥

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✧*。 98 ─海翔─

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 無論、志した時から軽んじてなどいなかった。
 むしろこの目で、この腕で、産まれたての妹を抱いた瞬間に生命の重さは分かっていたはずだった。
 ただ、消えてしまう生命の儚さは知らなかった。  知り得る事も出来なかった。

 命在る事が奇跡。

 医師として、その奇跡を紡ぐ手伝いがしたい。  自らが、救いたい。
 強く、強く、心に刻んでいた信念。  信条。

 潰えたそれを素早くかき集めて、改めて仕事と向き合わなければならないはずの海翔は、完全なる脆弱者となっていた。
 こんなにも腑抜けた自分が命の現場で働くのは忍びない。
 何度も辞めようと思った。
 命に押しつぶされそうで、尊いはずのものがあまりにも重たくて、このままでは続けられないと自暴自棄になりかけている。

 退職を申し出よう、と毎日考えていた。
 気付けば二週間が経ち、荒木の娘は児童相談所から来た職員にて引き取られていった。
 毎日のように四階を訪れては、物悲しく荒木の娘を見ていたが、それももう出来ない。

 走り去る車を見送った海翔の白衣が風で揺らめく。
 研修医用のドクターコートは、そうではない医師らよりもやや短めだ。
 それでも揺らぐほど風が強かった。


「……あ、……なくなってる……」


 サラサラと頬にかかった髪を耳にかけて身を翻した視線の先、あるものがなくなっている事に気付いて海翔は思わず立ち止まって呟いた。
 病院の入り口にずらりと並んだプランターの花々が、すべて紫陽花に代わっていたのである。

 海翔が日々愛でていた紫色のクロッカスは、いつなくなってしまったのだろう。
 日々の心の重圧に負け、花を愛でる事を忘れていた。 ……些細な変化に、気が付けなかった。
 そういえば、自宅で育てていた花達にも水をやっていない。
 その小さな命をも奪ってしまったと嘆きかけて、はたと思い出す。


「…………乃蒼……っ」


 毎日毎日、乃蒼を想ってクロッカスの花の写真を送り続けていたのに、それさえ途絶えさせてしまっていた。

 返事がなくとも、その意味を知ればいつか乃蒼は立ち直ってくれる、何があっても海翔が傍に居てくれるのだと安心してくれる、何年も変わらなかった一途な想いが届くはず───。

 なぜ海翔がそればかりを毎日寄越すのか、その意味を知りたいと思ってくれる日を待ちわびてひたすらに乃蒼を想い、仕事に邁進していたというのに。
 命の重さに耐え兼ねて乃蒼を愛する事すらも忘れてしまうなど、……一途が聞いて呆れる。


「………………」


 海翔は院内に戻り夜勤の医師へ申し送りを行ってから、しばらく扱っていなかったプライベート用のスマホを確認してみた。

 乃蒼からの連絡は、無い。
 二週間もの間、海翔からの連絡がなくとも乃蒼は平気なようだ。
 期待はしていなかったが、それを突き付けられるとやはり胸が苦しい。
 耐え難いほど、現実から目を背けたくなる。


「俺……こんなに脆かったんだな……」


 幼い頃から感情の起伏がほとんど無く、冷静沈着で穏やかな子だと大人達からも頼られる存在だった。
 そうなりたくてそうしていたわけではない。
 考える間もなく、いかに波風を立たせないようにするかを無意識下にて判断し、実行していただけである。
 それはただ単に、物事を深く考えようとしなかっただけなのだと思い知った。
 判断を間違えたと思う事がなく、わりと自らの思うように生きてこれた慢心もあったかもしれない。

 更衣室に設置されたソファに力無く腰掛けたまま、失意の底に沈む海翔はしばらく動けなかった。
 スリープ状態になり、画面が真っ黒になったスマホに情けない自身が映っていて嫌気が差し、咄嗟に白衣の胸ポケットにしまい込んだ。


「はぁ……」


 全身にかかるほどの大きな圧が、溜め息を深くさせた。

 来るはずのない乃蒼からの連絡を待つ事も、信条が潰えた命に携わる事も、己の弱さと腰抜け具合にも、何もかもから逃げ出してしまいたい。
 こんなにうまくいかない事などなかった。
 逃げ出したいなど、思った事がなかった。
 肩を落とし、項垂れて、力無く溜め息を吐くという経験も、これが初めてだ。

 何も考えたくない。
 生き甲斐となる仕事も、長年秘めてきた恋も、もういっそやめてしまおうか。
 ツラいから、逃げてしまおうか。
 気持ちをリセットするために街を出た乃蒼の気持ちが、今さらながらに痛いほどよく分かった。

 自分こそが乃蒼に寄り添ってやれる、気持ちを分かってやれると傲慢だった数ヶ月前の海翔がひどく滑稽に思える。
 笑顔を失くしてしまった乃蒼の、まるで本当に胸に穴が空いてしまったかのような空虚な気持ちを、あの時の海翔には分かってやれるはずなどなかった。
 命に寄り添う事も、追い掛け続けた恋も、今の海翔では背負いきれない。

 こんな時に浮かんだのは、憎き恋敵の馬鹿正直過ぎる真っ直ぐさ。
 あの男は、乃蒼を傷付けた。
 深く深く傷付け、反省の色もロクに見せず乃蒼の心をまったくもって理解してやらない、最低な男だ。

 しかし彼は───命をいとも容易く受け入れた。
 突然の事にまだ狼狽しているように見えたが、宿った命を認識し、受け入れ、少しでも疑心を抱けば『赤ちゃんがかわいそう』だとハッキリ言った。

 何故あそこまで、すんなりと重たい現実を受け止められるのだろう。
 命は尊くて重たいのに……何故、彼には受け入れる度量があって、海翔には無いのか。
 まさしくそこに、乃蒼を射止められない決定的な何かがあるような気がした。


「────っ」


 瞬きも忘れて呆然と床を睨んでいると、突然、胸ポケットが振動した。
 今しがたしまい込んだスマホを取り出す。  そこには、「メッセージ一件」とあった。


「…………っ!」


 差出人はなんと、二週間ぶりにその文字を目にした「乃蒼」だった。



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