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✧*。 97 ─海翔─
しおりを挟む再度項垂れた海翔の肩に、陸田の手が慰めるように添えられた。
深夜の一階ロビーは静か過ぎて、二人は自然と声を潜めている。
「リアルの現場は生半可じゃない。 俺達が研修医として経験を積むのは、……こういう事を学べって意味なんだと身を持って知った。 ……だって分かんねぇよ。 現実はマニュアル通りにはいかない。 ……患者に入れ込むなって意味が、……よく分かる」
「あぁ……。 そうだね。 ……俺の志は低かったと言わざるを得ない。 でも……命を救いたい、誰かのためになりたい、それは不謹慎な単なる理想……なのかな……」
「理想を追い求めるのもいいが、三嶋はまだ目の当たりにした事がないから現実が見えていないんだ。 オペについた事は?」
「外科にはまだ……。 帝王切開なら」
「だろ。 三嶋の産婦人科勤務中、一人も異常が無かった事の方が奇跡なんだよ。 命は重たいようでいてあっという間に絶えてしまう。 俺は思い知ったよ。 ……その命の本当の重さを知る事が、医師として慮るべき事だ、とな」
「命の、重さ……」
「一人一人の命の傍には必ず誰かが寄り添ってる。 その命と共に、大切な者の命さえ預ってるんだ。 俺達医療者がな」
現場を目の当たりにした陸田の言葉こそ、海翔には重たかった。
───今までが、奇跡だった───。
海翔は目に見える命との対峙しか経験がない。
あと約二年の研修医期間の間にそれを経験する事も覚悟の上だったけれど、理念が揺らいだ今はとてもその重さに耐えられそうになかった。
担当患者の死が、これほど心をズタズタにするとは思いもよらなかったからだ。
医師たるもの、どんな状況においても冷静で居て、平常心を保ち、的確に指示をして、確実に生と向き合わなければならない。
その自信が、今、木っ端微塵に砕け散った。
黙りこくった海翔は、荒木の笑顔と大きなお腹を思い浮かべた。
突然この世を去る事になった荒木の無念さは、もはやそれを問う事さえ出来ない。
けれど、ふと思い出す。
産まれる前から愛情たっぷりに育まれた小さな生命は、ここに確かに現存している。
「荒木さんの赤ちゃんは……児相……だよね……?」
「……そうなるな」
「そうか……。 ……俺、抱っこしてくる。 ……おめでとう、って言ってあげないと……」
「あぁ。 荒木さんが命をかけて産んだ子だ。 間違いなく愛されて産まれてきた。 可愛い女の子だ」
陸田も荒木と関わりがあったのかもしれない。 生まれ落ちた赤ん坊への荒木の愛を知っていた。
海翔もエコーで確認した通りの性別に、涙が込み上げてくる。
荒木の赤ん坊のこれからの事を考えると、医師失格なほどその子に感情移入してしまうかもしれない。
無念であろう荒木の思いを胸に、海翔は立ち上がった。
「……そうだったね、……女の子……」
自動販売機の機械音だけが響くここは海翔の誇り高き職場であり、また、生と死が混在する切実な医療現場だ。
揺らぐ理念が、ズタズタになった海翔の心から感情を一時失くさせた。
突然現れた「三嶋海翔」に、四階にある産婦人科の夜勤の看護師達は色めき立ったが、至って冷静に事情を説明し、荒木の赤ん坊を抱かせてくれるよう願い出た。
「……お願いできますか」
「えぇ、構いませんよ。 ちょうど今からミルクの時間です」
「自分があげても?」
「はい。 事情は分かりましたので。 よろしくお願いします」
海翔は、新生児ベッドで眠る荒木の赤ん坊を見て、ついに涙を溢してしまった。
こんなに心を乱されてはいけないのに、涙は止まらない。
荒木が自らの命と引き換えに、この小さな命を守り抜いた。
そう捉えようとしても、思い出されるのは診断の光景。
小さな胸に聴診器をあてる。
赤ん坊特有の健康な心音に、また涙が溢れた。
……生きている。 この子は、生きている。
「……っ……」
「三嶋先生、……その気持ち、忘れないで下さいね」
「……忘れられない、ですよ……」
ミルクを作って持って来てくれたのは、その道三十年のベテラン看護師、この総合病院での看護師長である浜本だった。
海翔が産婦人科勤務中、一番世話になった人物である。
荒木の赤ん坊を抱いて椅子に腰掛けると、浜本も隣にやって来てミルクを手渡してくれながら海翔の背中を擦った。
「決して、慣れてはいけません。 でもね、私達医療従事者は時に心を無にする事も必要なんですよ。 三嶋先生のように涙する研修医の方をこれまで何人か見てきましたが、現在はその頃の気持ちを忘れているように私には見えるんです。 ……みんなね。 悲しむのは人間として当然の事」
「……………………」
「三嶋先生は忘れないで下さい。 その気持ちを大切にして下さい。 ……諦めないで下さい」
浜本の言葉も、先程の陸田の言葉と同様にとてつもなく海翔の胸に刺さった。
───もちろん、諦めたくなどない。
これほどまでに命が重たいものだと知るまでは、海翔にも根拠のない自信があった。
けれど今、その自信は皆無だ。
慣れる事はおろか、白衣を着ている事さえ自分にはその資格がないのではと自信喪失している。
諦めたくない。 命と向き合いたい。
そのために海翔は医師を志したはずだ。
呼吸がうまく出来なくなりそうだった。
腕の中で、夢中でミルクを飲む荒木の赤ん坊と目が合うと、刹那に海翔の心は寒々しい悲鳴を上げる。
目に見えない、だがとても重たくて巨大な何かが海翔の心を蝕んだ。
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