99 / 131
✦ 7 ✦
✧*。 96 ─海翔─
しおりを挟む… … …
「嘘、でしょ……」
海翔は、持っていたコーヒーカップを床に落とした。
それは紙製のもので、中身も少量だったためさほど床に被害はなかった。
同じ医学部出身で付き合いの長い、研修医である陸田から聞かされた言葉に、海翔の背筋が凍り付いてうまく声を発せられない。
陸田は、自販機の隣に配置された手消毒用アルコールと紙ナプキンで、海翔が濡らした床を綺麗に吹き上げた。
「……仕方ない、と言ってしまうと医師失格になってしまうんだがな。 ……荒木さんの場合は予期する事の出来ない、……「仕方のない」結果だった」
「そんな……そんな、……原因は……?」
「……産科危機的出血」
「………………」
とても立っていられなくなり、そばにあった長椅子に力なくへたり込んだ。
心臓がずしりと重たくなるのを感じながら、海翔は陸田を見上げる。
「赤ちゃんは……?」
「何事もない。 無事だ。 ……四階に居るよ」
「……うっ……」
「おい三嶋、大丈夫か?」
項垂れて呻いた海翔に、陸田が紙ナプキンを手渡した。
海翔の冷や汗が止まらなかったからだ。
医師たるもの、死に直面する事の覚悟は志した瞬間から持っていなければならなかった。
海翔ももちろん、理解していた。
ただし、担当患者のそれを目の当たりにする覚悟は、浅薄ながらまだ無かった。
陸田から聞かされたその途端、立っていられないほどの虚脱感に見舞われてしまい、「自分には受け止めきれない、続けられないかもしれない」と頭のどこかで警鐘が鳴った。
つい先月も、大きなお腹を庇いながら歩く荒木と、海翔は会話をしたばかりである。
父親は日常的に暴力をふるう男だったらしく、法的に接近禁止令が出された後の離婚で、彼女は望んでシングルマザーになる予定だった。
配属初日から外来にて荒木を担当し、海翔が配属替えになってもにこやかに話し掛けてくれた、海翔にとっては初めての患者と言って良かった。
順調ですか、との問いに、予定日前に産まれそうなの、とまいった顔の奥で最高の笑顔を見せていた。
それがほんの約二週間前の事だった。
「……荒木さんは、人一倍お母さんになる事を望んでいて、赤ちゃんを産むことを誰よりも楽しみにしていた……。 産まれる前から父親が居ない、だから誰よりも何よりも愛情を注ぐんだって、……。 俺に……っ、満面の笑みでそう言ってたんだ……! なのに……、なんで……っ」
海翔は両手で顔を覆い、込み上げてくる嗚咽を止められなかった。
命が消えてしまう前に、それを食い止めるのが医師ではないのかと、陸田に言っても仕方のない事を叫んでしまいそうだった。
「……三嶋。 ……俺達は神様じゃない。 ……防げるものを防がなかったら悔やんでもしょうがないが、今回は違う。 ……設備の整ったこの総合病院でも防ぎようがなかった、悲しい事例なんだよ」
「悔しい……っ、悔しい……! どうして……っ」
「三嶋、悪かった。 お前外来で荒木さん担当してたから、話しといた方がいいと思ったんだ」
「………………っっ」
「俺は先月から産婦人科勤務で、荒木さんの出産補助にもついた。 目の前で、悲劇を見た。 命が産まれたと同時に消える瞬間も、医師と看護師が必死で死を食い止めようとする様も」
顔を上げた海翔に、ん、と紙ナプキンを押し付けて、陸田も腰掛ける。
惨劇を目前で見た陸田に、海翔は掛ける言葉が見付からなかった。
そんな余裕も、無かった。
汗が止まらない。
ついこの間まで、産まれてくる生命を心待ちにした逞しい母としての笑顔を見せていた彼女が、もうこの世に居ないなど到底信じたくない。
元気に産声を上げたであろう赤ん坊は、一体どうなるのか。
ここを退院した後の、荒木の赤ん坊は母親の愛を知らないまま大人になってゆく。 それを考えただけで背筋が凍った。
海翔は医師としての志が甘かった事を痛感していた。
命は重たい。 計り知れないほど重たいのに、すぐに絶える。
荒木の場合は救いたくても救えなかった「事例」かもしれないが、本当に望みは一%も無かったのだろうか。
研修医の立場で大それた事は言えないし、思えない。 分かっていても、医師としての不退転の決意を素人考えが邪魔をする。
だが行き場のない悲憤に、握った拳と唇が震えた。
0
お気に入りに追加
164
あなたにおすすめの小説
ハルとアキ
花町 シュガー
BL
『嗚呼、秘密よ。どうかもう少しだけ一緒に居させて……』
双子の兄、ハルの婚約者がどんな奴かを探るため、ハルのふりをして学園に入学するアキ。
しかし、その婚約者はとんでもない奴だった!?
「あんたにならハルをまかせてもいいかなって、そう思えたんだ。
だから、さよならが来るその時までは……偽りでいい。
〝俺〟を愛してーー
どうか気づいて。お願い、気づかないで」
----------------------------------------
【目次】
・本編(アキ編)〈俺様 × 訳あり〉
・各キャラクターの今後について
・中編(イロハ編)〈包容力 × 元気〉
・リクエスト編
・番外編
・中編(ハル編)〈ヤンデレ × ツンデレ〉
・番外編
----------------------------------------
*表紙絵:たまみたま様(@l0x0lm69) *
※ 笑いあり友情あり甘々ありの、切なめです。
※心理描写を大切に書いてます。
※イラスト・コメントお気軽にどうぞ♪
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/horror.png?id=d742d2f035dd0b8efefe)
どうせ全部、知ってるくせに。
楽川楽
BL
【腹黒美形×単純平凡】
親友と、飲み会の悪ふざけでキスをした。単なる罰ゲームだったのに、どうしてもあのキスが忘れられない…。
飲み会のノリでしたキスで、親友を意識し始めてしまった単純な受けが、まんまと腹黒攻めに捕まるお話。
※fujossyさんの属性コンテスト『ノンケ受け』部門にて優秀賞をいただいた作品です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
あなたの隣で初めての恋を知る
ななもりあや
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。
その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。
そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。
一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。
初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。
表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。
幸せな復讐
志生帆 海
BL
お前の結婚式前夜……僕たちは最後の儀式のように身体を重ねた。
明日から別々の人生を歩むことを受け入れたのは、僕の方だった。
だから最後に一生忘れない程、激しく深く抱き合ったことを後悔していない。
でも僕はこれからどうやって生きて行けばいい。
君に捨てられた僕の恋の行方は……
それぞれの新生活を意識して書きました。
よろしくお願いします。
fujossyさんの新生活コンテスト応募作品の転載です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる