永遠のクロッカス

須藤慎弥

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✧*。 96 ─海翔─

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… … …


「嘘、でしょ……」


 海翔は、持っていたコーヒーカップを床に落とした。
 それは紙製のもので、中身も少量だったためさほど床に被害はなかった。

 同じ医学部出身で付き合いの長い、研修医である陸田から聞かされた言葉に、海翔の背筋が凍り付いてうまく声を発せられない。
 陸田は、自販機の隣に配置された手消毒用アルコールと紙ナプキンで、海翔が濡らした床を綺麗に吹き上げた。


「……仕方ない、と言ってしまうと医師失格になってしまうんだがな。 ……荒木さんの場合は予期する事の出来ない、……「仕方のない」結果だった」
「そんな……そんな、……原因は……?」
「……産科危機的出血」
「………………」


 とても立っていられなくなり、そばにあった長椅子に力なくへたり込んだ。
 心臓がずしりと重たくなるのを感じながら、海翔は陸田を見上げる。


「赤ちゃんは……?」
「何事もない。 無事だ。 ……四階に居るよ」
「……うっ……」
「おい三嶋、大丈夫か?」


 項垂れて呻いた海翔に、陸田が紙ナプキンを手渡した。
 海翔の冷や汗が止まらなかったからだ。
 医師たるもの、死に直面する事の覚悟は志した瞬間から持っていなければならなかった。

 海翔ももちろん、理解していた。
 ただし、担当患者のそれを目の当たりにする覚悟は、浅薄ながらまだ無かった。
 陸田から聞かされたその途端、立っていられないほどの虚脱感に見舞われてしまい、「自分には受け止めきれない、続けられないかもしれない」と頭のどこかで警鐘が鳴った。

 つい先月も、大きなお腹を庇いながら歩く荒木と、海翔は会話をしたばかりである。
 父親は日常的に暴力をふるう男だったらしく、法的に接近禁止令が出された後の離婚で、彼女は望んでシングルマザーになる予定だった。
 配属初日から外来にて荒木を担当し、海翔が配属替えになってもにこやかに話し掛けてくれた、海翔にとっては初めての患者と言って良かった。

 順調ですか、との問いに、予定日前に産まれそうなの、とまいった顔の奥で最高の笑顔を見せていた。
 それがほんの約二週間前の事だった。


「……荒木さんは、人一倍お母さんになる事を望んでいて、赤ちゃんを産むことを誰よりも楽しみにしていた……。 産まれる前から父親が居ない、だから誰よりも何よりも愛情を注ぐんだって、……。 俺に……っ、満面の笑みでそう言ってたんだ……! なのに……、なんで……っ」


 海翔は両手で顔を覆い、込み上げてくる嗚咽を止められなかった。
 命が消えてしまう前に、それを食い止めるのが医師ではないのかと、陸田に言っても仕方のない事を叫んでしまいそうだった。


「……三嶋。 ……俺達は神様じゃない。 ……防げるものを防がなかったら悔やんでもしょうがないが、今回は違う。 ……設備の整ったこの総合病院でも防ぎようがなかった、悲しい事例なんだよ」
「悔しい……っ、悔しい……! どうして……っ」
「三嶋、悪かった。 お前外来で荒木さん担当してたから、話しといた方がいいと思ったんだ」
「………………っっ」
「俺は先月から産婦人科勤務で、荒木さんの出産補助にもついた。 目の前で、悲劇を見た。 命が産まれたと同時に消える瞬間も、医師と看護師が必死で死を食い止めようとする様も」


 顔を上げた海翔に、ん、と紙ナプキンを押し付けて、陸田も腰掛ける。
 惨劇を目前で見た陸田に、海翔は掛ける言葉が見付からなかった。
 そんな余裕も、無かった。

 汗が止まらない。
 ついこの間まで、産まれてくる生命を心待ちにした逞しい母としての笑顔を見せていた彼女が、もうこの世に居ないなど到底信じたくない。
 元気に産声を上げたであろう赤ん坊は、一体どうなるのか。
 ここを退院した後の、荒木の赤ん坊は母親の愛を知らないまま大人になってゆく。  それを考えただけで背筋が凍った。

 海翔は医師としての志が甘かった事を痛感していた。
 命は重たい。  計り知れないほど重たいのに、すぐに絶える。
 荒木の場合は救いたくても救えなかった「事例」かもしれないが、本当に望みは一%も無かったのだろうか。
 研修医の立場で大それた事は言えないし、思えない。  分かっていても、医師としての不退転の決意を素人考えが邪魔をする。

 だが行き場のない悲憤に、握った拳と唇が震えた。



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