永遠のクロッカス

須藤慎弥

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 縋りたい。 海翔に、縋ってしまいたい。
 離れてみて分かった、海翔の優しさ、温もり。
 言葉ではなく、その確かな存在で「乃蒼はひとりじゃない」を実証してくれていた。

 嘆き続けずに済んだ事の感謝を伝えないまま、乃蒼は現実から逃げてしまい、それだけを今はひたすら後悔している。
 その後悔と、よく考えもしないで海翔に縋ろうとしてしまった自身の軽はずみな行いと、彼からの想いの狭間で揺れていた。

 海翔の事が好きかどうかなど、まだ分からない。
 あのまま、溢れんばかりの優しさに即座に甘えてしまっていては、長い間好きでいてくれた海翔に申し訳が立たない。
 簡単な事ではないのだ。
 月光を失ったからと言って、絶望を立ち消えさせてくれたからと言って、すぐには答えを見出だせない。

『好きな人なんか要らない』

 心配で乃蒼を放っておけなかった海翔にそう言ってしまった事で、海翔は乃蒼に踏み込めなくなった。
 乃蒼自身が、そうさせてしまった。
 差し伸べてくれた手を取り、引き寄せられる直前に逃げ出した乃蒼を、それでも海翔は咎めない。

 愛している、と言われて、気持ちはさらに揺れた。

 乃蒼は、自らが色恋一つでこんなにも心が右往左往する質だとは、想像だにしていなかった。
 これからも何も起こりようのない、起こす勇気もない乃蒼は色恋から一刻も早く離れるべきだと悟った。
 引っ越しまであと一週間はあったのに、事を急いだのもそのせいだ。

 月光に激しく心を揺さぶられたからといって、見境なく海翔に縋った己がひどく無様に思えた。
 海翔はゴムがないから抱けないと言っていたけれど、本当のところはどうだか分からない。
 八年も戸惑いを抱えておきながら、あっちがダメならこっちで、と手近で済ませようとしている、切り替えの早い奴だと呆れられたのではないか。
 そんなつもりなど乃蒼にはこれっぽっちも無かった。

 半分意識がある状態で迫ったのは確かだ。
 けれどそれは、月光の事とはあまり関係が無かった。

 海翔はいつも、乃蒼を熱く見詰めてくる。
 あえて乃蒼を心配しているとは言わず、黙って傍に居てくれた。
 果たして本人に伝わったかどうか分からないが、月光に渾身の別れを告げた後も、涙を流す乃蒼を優しく抱き締めてくれた。

『乃蒼はひとりじゃない、俺がいるよ』

 この言葉が、慈しむような強い抱擁が、傷む乃蒼の胸にグサリと突き刺さった。

 海翔だったら、甘えてもいいのかもしれない。
 海翔だったら、自分を受け入れてくれるのかもしれない。
 海翔だったら、愛してほしいと伝えれば、受け止めきれないほどの愛をくれるのかもしれない。

 酔いに任せて迫っていた途中から、乃蒼はすでに覚醒していた。
 「もしかして」を確かめたくて、ありったけの勇気をかき集めた。
 願いもむなしく海翔は抱いてくれなかったけれど、蕩けるような、それでいて激しい情熱的なキスをくれて、一晩中抱き締めていてくれた。
 夜中ふと目が覚めて海翔の寝顔を見詰めていると、何とも例え難い気持ちが湧いた事だけは覚えている。

 正体不明の気持ちの果てに行き着く前に、乃蒼は逃げ出した。
 それに気付く事すら怖かった。
 甘えられない。 縋りきる事など出来ない。
 海翔が最後までしなかった本当の理由を考え始めると、心が壊れそうだった。

 もう傷付きたくない。

 海翔に裏切られるとは思わないけれど、万が一がある。
 もし、また同じ顛末になったら……?
 月光との日々が消え去った空虚な心を救おうとしてくれている、その海翔が居なくなってしまったら、乃蒼は次こそ息絶える。

 それだけ、海翔の存在は大きくなっていた。
 乃蒼が腐らずにいられるのも、海翔が居てくれたから。
 絶対に何事かを言いたかったはずなのに、乃蒼の隣で寒そうに身を寄せてきた海翔は黙って本を読んでいた。
 ノートパソコンを持参して、乃蒼には分からない仕事を黙々としていた事もある。
 妹達の面倒はいいのか、と聞こうにも、海翔は寡黙だった。
 会話は必要最低限だけで、あとはただ乃蒼の隣に居た。

 空気のような居心地の良さを感じ始めるのにもそう時間は掛からなくて、乃蒼は海翔に僅かにだが心を開けるようになった。
 それは友人としてではなく、乃蒼を支える一人の───として。

 この気持ちが定まるまで、海翔には連絡は出来ない。
 乃蒼は臆病だった。
 海翔よりも、臆病になってしまった。
 フラフラと彷徨う、「愛されたい」と叫ぶ乃蒼のハート型の心臓は、触れると溶けてしまうほどに脆くなっていた。






 海翔からメッセージと共に届く謎の花の色は、すべて紫色。
 それは、病院の玄関口にあったプランターのうちの一つだったり、マンションのベランダの家庭菜園が並ぶうちの一つだったり、花屋で写したものであったり、場所は様々で同じ花のように見えるのだが必ず紫色なのだ。

 スマホを握ったまま、乃蒼の時がしばし止まった。

 ───これ……海翔は何か、伝えたいメッセージがあるのかもしれない。

「あ、……花屋さん!!」

 乃蒼は紫色の花の写真を保存し、スプリングコートは羽織らないで急いで玄関を飛び出した。
 三ヶ月間、海翔からの無償の愛を受け取り続けた乃蒼は、その日ようやく動き始めた。





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