永遠のクロッカス

須藤慎弥

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✧*。 86─海翔─

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 この状況はいつかと同じだ。
 
 月光に彼女ができたと知ってヤケを起こし、乃蒼が初めてゆるぎに足を踏み入れたあの日───。
 あの時も今のように、甘えん坊な猫のように海翔にすり寄ってきていた。

 何もかも忘れさせてほしい、ツラいままひとりぼっちで居たくない。

 そう無言で訴えてくる乃蒼はいつも悲痛な面持ちで、翌日にはまるで覚えていない海翔を見詰めていた。
 それはとても痛々しく、しかし海翔にとっては可愛くてたまらなかった。
 だが同時に、どうして振り向いてくれないのというジレンマも湧き起こり、それは自分が何も行動を起こしていないせいだろ、と自身に叱られ気持ちが落ち込む。
 この約八年、その繰り返しだった。


「ん~? へへへっ」
「何してるの、ダメだよ! 乃蒼!」
「う~っ! おねがい~……お酒がダメならこっち食べたいよぉ……食べさせて……」
「ダ、ダメ! 俺はそんなつもりは……!」


 酔いどれ天使は海翔の性欲を無条件に揺さぶる。
 とろんとした潤んだ瞳と、これまで海翔が教え込んできた手腕であっという間に調教主を虜にするのだ。

 ……だが今ここで流されるわけにはいかない。
 傷を負った乃蒼は酒に呑まれているだけ。
 あの時とは状況がまるで変わった。
 単に流されてなるものかと、海翔は必死で己の性欲と乃蒼の懇願から目を背けた。

 ところが酔っ払った乃蒼は、記憶がないのをいい事に海翔の抵抗を無にする言葉を平気で口にする。


「じゃあいい。 他の人探す! 食べさせてくれる人探す!」
「ま、またそんな事言ってるの!? それもダメ、ダメだよ!」
「だって海翔、食べさせてくれないじゃんーっ。 今日すごくエッチしたい気分なんだもん……。 忘れさせて、ほしい……ツラい、から……」
「…………乃蒼……」


 抵抗された乃蒼が、落胆と苛立ちの表情で立ち上がりかけた。
 まさにあの時と同じく、乃蒼はあまりのショックで人肌を強く求めている。
 その腕を取って抱き寄せてみれば、たちまち鼻を啜り始めて海翔の胸に頭を乗せ、ポロポロと涙を溢した。

 一人で海翔を待つ間、我慢していた思いが一気に溢れ出しているかのように、悲しい雫は次から次へと乃蒼の頬を濡らす。
 この涙が月光との決別への第一歩だとしたら、それは止めさせてはならない。
 泣きたいなら、思いっきり泣けばいい。
 どれだけ月光を想っていたかが分かるほどの乃蒼の号泣に、海翔も言葉をなくした。
 今海翔がしてやれるのは、乃蒼の望みを叶えてあげる事だけ……なのかもしれない。

 ここで拒否すれば、乃蒼は行きずりの相手と寝る事になる。 今日は何が何でも人肌を求めるに違いない。
 それがどんな相手であろうと許せる自信が無いので、もはや葛藤は諦めた。


「思い出しちゃうな……」


 思えばあの時も、誰でもいいから慰めてほしいと愛に飢えた乃蒼は濡れた瞳をしていた。
 見上げてくる瞳があの頃と一つだけ違うのは、今日の乃蒼は相手が「海翔」だと認識している、という事。
 誰だか分からない相手に縋っているわけではなく、海翔を酒に誘った時点で乃蒼は何もかもを覚悟していたのではと思った。


「なに……なにを思い出すって……?」
「傷付いた乃蒼は酒に走って、こうやって人肌を求めるんだよね……。 あの時もそうだった」
「なに言ってんの……海翔? ここに居るのは海翔? ……海翔ー……」


 海翔の首に、無遠慮な乃蒼の腕が絡み付く。
 姿勢を正した乃蒼は、頬を赤く染めて海翔を扇情的に煽るが、酔っ払っているというのに口調がどことなくいつもの乃蒼を彷彿とさせた。
 ほんの少しの差で唇が触れ合ってしまいそうだ。
 あと数センチ、互いが寄る事でキスが出来る。
 確かめたい事を確認するべく、海翔は焦らしを試みた。


「甘え上手で可愛い。 ほんとにもう……いつも思うけど、ギャップがたまんないね」
「ねぇ……食べさせてくれる……?」
「………後悔しても知らないよ?」
「なんで後悔するんだよー……俺が食べたいって言ってるのに……」
「本当に後悔しない? 相手が俺だって分かってるでしょ?」
「……分かってる……! 後悔なんてしないから……っ、早く、───抱いて」


 乃蒼は最後の台詞にありったけの思いを乗せていた。


 慰めて。
 今だけでも、忘れさせて。
 ツラい。
 誰かに愛されていないと、この世でひとりぼっちになったと錯覚してしまいそうだから、「抱いて」。


 失意の底に沈んだ乃蒼の望みを叶えるべく、海翔はようやく華奢な腰を自身に寄せて密着させ、震える唇を奪った。
 桃の味がする。
 甘い、甘い、ひたすらに甘いだけの乃蒼の唇は、失恋に嘆いている方が美味しい。


「……ん……、……」


 乃蒼の吐息が海翔の脳に響く。
 抱き寄せた分だけ、乃蒼も海翔にしがみついてくれた。
 舌が絡み合う粘膜のぶつかる音がテレビからの音にかき消されたが、それでも二人はキスをやめなかった。
 むしろ乃蒼には、雑音があった方が好都合だろう。


 ───ねぇ、乃蒼。 酔っ払ったフリ……見逃すところだったよ。






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