永遠のクロッカス

須藤慎弥

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✧*。 83─海翔─

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 海翔は整形外科の受付をスルーし、奥まった場所にある院内のトイレへと一目散に歩いていた。
 乃蒼はきっと、誰にも見られないように、聞かれないように、一番奥の個室で声を殺している。
く早く行ってやらなければ、乃蒼はまた、ひとりぼっちで悲しみにむせび泣く事になると思い、海翔は迷わずトイレの扉を開けた。
 すると読み通り、一番奥の個室が閉まっている。


「乃蒼」
「………………っ」


 乃蒼を驚かさぬよう、ノックをせずに扉の向こうへ優しく声を掛ける。
 確かに乃蒼の気配はするが、やはり沈黙された。


「開けて、乃蒼。 居るんでしょ」


 それでも海翔は引かなかった。


 ───もう、ひとりで泣かせたくない。
 月光を想って泣くのは今日で最後にしてほしい。
 嘘の笑顔など浮かべなくてもいいから、乃蒼……顔を見せて……。


 海翔が瞳を閉じて乃蒼にそう念じていると、カチャッと鍵を解錠する音がして、ゆっくりと扉が開かれる。


「……乃蒼……」


 姿を見せた乃蒼の瞳は、案の定真っ赤に充血していた。
 出て来ようとする乃蒼を個室内に押し戻し、後ろ手に施錠する。


「……なんでここが分かったんだよ……って、おい、なんで海翔も……っ?」


 今の今まで泣いていたと分かるのに、海翔にまで強がろうとする乃蒼のいたいけなプライドが切なくもあり、また、可愛くてたまらなかった。
 こうしていつも、月光の影を追っては打ちひしがれる乃蒼は、不謹慎だとは分かっているが健気で本当に可愛い。

 トイレの個室内は大人の男性二人が入ると窮屈で、それを言い訳に海翔は乃蒼を抱き寄せた。
 身動ぎしようとする乃蒼の体を、力の限り、キツくキツく抱き締めてやる。


「……っ、海翔、苦しい……っ」


 海翔からの力強い抱擁に狼狽える乃蒼を無視して、力を込め続けた。

 無謀な恋だと気付いているのに諦められない、この一途な横顔はあの頃から何も変わっていない。
 月光に恋する乃蒼の横顔を一途に追い掛けてきた海翔にとっては、たとえ乃蒼が誰を想っていようと関係ないと改めて思い直す。

 すぐに好きになってくれとは言わない。
 都合良く好きになってもらえるとも思っていない。

 ただ、何年もひたすら乃蒼を想っている人間がここに居るんだよ、とは伝えたかった。
 乃蒼はひとりじゃない。
 決して、ひとりじゃない。
 月光と決別した乃蒼に今言えるのは、それだけだ。


「乃蒼、ちゃんと言えたね。 偉いよ」
「偉い、って……」
「本当に偉かった。 乃蒼は強いね」


 抱き締めたまま、乃蒼のサラサラした髪を撫でてやる。
 精一杯の虚勢を張った彼なりの強がりを認めてやると、乃蒼の体がわずかに震え始めた。


「好きだったんだよね。 ずっと。 俺は乃蒼を見てきたから知ってる。 どれだけ勇気を出してあぁ言ったのかも、ちゃんと」
「……っ……っ……」
「乃蒼、俺はもう乃蒼に気持ちを伝える事はしない。 でも、今だけはこうしてて。 ひとりで泣かせたくないんだ」
「……っ……ごめ、……っ、ごめん、海翔……っ、ごめん……っ」
「なんで謝るの。 謝る事なんてなに一つ無いよ。 乃蒼はひとりじゃない、俺がいるよって事だけは覚えておいてね。 これから先も、乃蒼を困らせる言葉は言わないから……」


 心を深く抉られた乃蒼の気持ちを考えれば、簡単に海翔の想いなど伝えられるはずがなかった。
 恋人としての失恋と、友人としての別離を一緒くたに経験させられた乃蒼の心情は、海翔には分かり知れない。
 思い起こせば間違いなく幸せだったであろう、月光と過ごした乃蒼の青春が跡形もなく崩れ去ったのだ。

 分からない。
 今、乃蒼がどれほどの暗闇に沈んでしまっているかなど、海翔に分かってやれるわけがない。

 海翔の胸で泣き始めた乃蒼は、鼻を啜りながらしきりに「ごめん」と謝ってきた。
 こんな醜態を晒して「ごめん」なのか、海翔の気持ちを知りながら縋って「ごめん」なのか。
 ……恐らく両方だ。


「……乃蒼……そのまま聞いて。 悲しい事があった後は、嬉しい出来事が必ず待ってる。 人生はバランス良く成り立ってるものなんだ。 時間は掛かるかもしれないけど、きっと忘れられる日がくる。 一途な乃蒼の想い、いつか別の誰かに向けられる日がくるよ」
「…………こない……いや、……そんな日……こなくていい……」
「……今はそう思えなくて当然か。 ごめんね、俺まるで幸福論者だね」
「難しい事言うな……分かんないから……」
「ふふ、ごめん」


 ひとしきり海翔の胸で静かに泣いた乃蒼の瞳は、いつの間にか渇いているようだった。
 どんなに悲しくても、毎日の日々の生活がそれを忘れさせてくれる。
 心がズタズタに壊れてしまっても、いつか必ず元通りになる日がくる。

 乃蒼がまた心から笑えるようになればいい。
 たとえそうさせてやるのが海翔ではないとしても、乃蒼の笑顔が戻るのであればそれ以上は何も望まない。


「……海翔」
「ん?」
「今日も夜勤……?」


 胸元から、泣き腫らした瞳で乃蒼が見上げてきた。
 こんなに近い距離で乃蒼を見るのが久々で、海翔は場違いにもドキドキしてしまう。


「今日は明けの休みだよ」
「…………泊まる?」
「……泊まってほしい?」
「酒飲みたい。 ……海翔が居れば飲んでいいんだろ」
「そういう事か。 いくらでも付き合うよ」
「……ありがと」


 海翔の言った事を律儀に守ろうとしているのが嬉しくて、心が疼いた。
 本格的に飲みたい気分だと、酒に弱い乃蒼が言うのだから相当である。

 恋する相手からの上目遣いは目に毒だ。
 海翔は、乃蒼をきゅっと抱き締めるフリをして、自身の高鳴る胸の鼓動を聞かせた。





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